2014-09-28

井草八幡宮


杉並区にある「井草八幡宮」を参拝。

青梅街道沿いにある。都内でも有数の広大な社叢を誇る。この地域一帯は遅野井とも称され、明治期までは「遅野井八幡宮」とも呼ばれていたようだ。創建は、平安時代末期といわれている。当初は春日神を祀っており、源頼朝が奥州討伐の折、八幡神を合祀して戦勝を祈願して以来八幡宮を合祀し、後年春日社を末社として奉斎するようになったとのこと。文明9年には太田道灌が石神井城の豊島氏を攻むるに当たり、戦勝祈願をしたと云い伝えられている。
一の鳥居を潜り南へ歩き、突き当りを右(西)へゆくと、美しい朱の楼門が待つ。
境内を更に進んで今度は北へ向きを変える。



境内には、頼朝公が奥州征伐の際に立ち寄り戦勝祈願し、報賽として2本の松を植えたと伝えられています。現在の松は2代目で、以前の松は1本は明治初年に、もう1本は昭和48年に枯れてしまいました。衝立として回廊内に保管されているそうです。
神門をさらに潜り、拝殿へ。
本殿一体の権現造です。
神紋は八幡宮らしく「三つ巴」紋でした。

青梅街道に面する東の大鳥居は高さ9Mもある立派な明神鳥居でした。




大宮八幡宮



「大宮八幡宮」参拝。

源頼義により建立された。武蔵国の三大宮の1つで「多摩の大宮」とも呼ばれ、境内は15,000坪と都内でも3番目の広さを持つ。東京のほぼ中央に位置するため「東京のへそ」という異名も持つ。

御神水は「多摩乃大宮水」と称し、以前は自然に湧出したが現在はポンプで汲み上げている。



前九年の役のとき、源頼義は奥州に向かう途中、武蔵国にて空に八条の白雲をみて八幡大神の守護を感じたという。その後乱を平定した頼義は武蔵国に戻り、康平6年(1063年)に、八条の白雲をみた地に石清水八幡宮の分霊を祀り、当社を創建したとされる。



鎮座地の大宮という地名は、当宮の 神域が広大であったことから名づけられたそうです。
現在の境内も15000坪あるようだ。
神紋は、源氏の家紋 「笹竜胆」紋でした。
本殿は、望遠にて何とか千木・鰹木部分を撮影することができました。
こちらも、権現造のようでした。
覆い茂っているため、わかりづらいですが、二本の「銀杏」は夫婦銀杏と呼ばれています。
左・・・男銀杏   右・・・女銀杏

色づき始めたら綺麗なことでしょう。