2010-06-19

レイライン 確認

日本の神秘「レイライン」をGoogle Earthで確認してみた。

太陽の運行線が上総一ノ宮の玉前神社から島根の出雲大社を結ぶ。相模国の
寒川神社、富士山、日蓮宗の聖地七面山、伊吹山、琵琶湖竹生島の弁財天、大江山の皇大神社、大山神社と名だたる聖地が並ぶ神秘のレイラン。
 果たしてGoogle Earth では?
Lay
クリックして拡大してご覧ください。お見事!!一直線。



2010-05-23

千葉 寒川神社

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千葉市 「寒川神社」に参拝。千葉郡 ニ座 式内社かとも言われている神社だ。(「寒川神社」は船橋市の「二宮神社」とも言われている)ご祭神は、寒川比古命 寒川比賣命。天照大御神を配祀する。
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ご神紋は、二つ。裏紋は千葉氏の家紋「月星紋」そして、写真にある珍し紋だ。「八稜鏡ハチリョウキョウ紋」。八稜鏡とは、八咫鏡を図案化したもの。
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千木・鰹木をみると、現在では天照大御神を第一としているようだ。

千木・・・屋根の両端で交叉させた木。通常、祭神が男神の社は千木を外削ぎ(先端を地面に対して垂直に削る)に、女神の社は内削ぎ(水平に削る)にしている。

鰹木・・・屋根の上に棟に直角になるように何本か平行して並べた木である。鰹木の数は、奇数は陽数・偶数は陰数とされ、それぞれ男神・女神の見分けができる。

千葉 二宮神社

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船橋市にある千葉の式内社「二宮神社」に参拝。下總國千葉郡ニ座のうちの一つに 「寒川神社」とあるのが、この「二宮神社」だろう。千葉市内にも同名の「寒川神社」があるのですが、こちらの二宮神社の方が有力のようです。ご祭神は、速須佐之男命。稻田比賣命 大國主命を配する。
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神紋は「亀甲に七曜紋」。千葉氏の影響だろう。(千葉県内の神社は、千葉氏に加護を受けていた関係から千葉氏の家紋「月星紋」を神紋としている神社が多いのである。月星紋は、千葉氏の妙見信仰の顕れ)

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社殿は、銅板葺の権現造り。彫刻も見事なものだった。


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千葉 蘇我比咩神社

式内社 千葉郡 ニ座の一つ「蘇我比咩神社」を参拝。
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非常に小さな神社であった。ご祭神は、蘇我比咩大神 。後に天照大神、応神天皇などを配祀。
<蘇我比咩神社御縁起
今から壱阡五百年位前里人の守り神として祭られており、その後第十二代景行天皇の皇子であらせられた日本武尊命が東国地方の夷達を統一すべく、弟橘姫を始め多数の家来をつれて軍船に乗り千葉沖にさしかかったところ、風浪が強くなり船が沈没の危険にあった時、弟橘姫は竜神の怒りを静めんと我が身を海中に沈め、この時一緒に同道して来た五人の比咩等も共に海中に身を投じた。その内の一人蘇我大臣の娘はこの下の海辺に打ち上げられ、里人の手厚い看護により蘇生することが出来、都に帰ることが出来た。この里人の行為に深く感激し、第十五代応神天皇の特別の命により、蘇我氏がこの周辺の国造として仁政をつかさどった。代々蘇我氏は「神紋は「五七の桐」のようだ。東京湾そばにある千葉の式内社三社「蘇我比咩、姉埼、飫富」はみな「五七の桐」を神紋としているのは偶然ではないだろう。
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拝殿はかなり小さなものであった。
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2010-05-04

鶴岡八幡宮

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相模国一之宮にして旧国幣中社「鶴岡八幡宮」を参拝。壮麗な神門(楼門)と拝殿に目を奪われた。朱、金、緑などに彩られた装飾が実に美しい。



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そして至る所に数々の「三つ巴」紋。

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さすが、源氏のお膝元です。

さて境内には、頼朝公をお祀りする「白旗神社」もありました。

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クリック(拡大)してご覧ください。神紋は「笹竜胆」紋です。おかしいですね。清和源氏の嫡流が村上源氏の笹竜胆紋を使用したはずがないのですが、後世になってごちゃ混ぜになったのでしょうね。まあ、鎌倉市自体の紋章も「笹竜胆」なくらいですから、しょうがないでしょうか。そして、良く見てください手前の賽銭箱の紋「ニ引き両」紋です。これは、足利家の家紋です。当然かかわりがあったのでしょう。それとも八幡太郎義家がお上から「五七の桐」紋を賜り使用したと同時に「ニ引き両」紋も掲げていたという説があるので、ひょっとしたそちらから来ているのかもしれませんね。まあ深くは考えない様にしましょうか。

鎌倉宮

北方謙三の時代小説 南北朝シリーズを読んだ時から是非訪れたかった「鎌倉宮」を参拝。
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ご祭神が「大塔宮(おおとうのみや) 護良親王(もりながしんのう)」だからです。
ご由緒を記載しておきます。

護良親王(もりながしんのう)は延慶(えんぎょう)元年(1308年)に後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の皇子としてご誕生になりました。6歳の時に京都の三千院(さんぜんいん)にお入りになりますが、11歳で比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)に入室し、尊雲法親王(そんうんほっしんのう)と呼ばれ、天台座主(てんだいざす)となられます。当時、鎌倉幕府の専横な政治に、父帝の後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は国家の荒廃を憂えられ、親王と共に元弘(げんこう)元年(1331年)6月、比叡山にて討幕の挙兵をする手筈でした。しかし、この計画は幕府の知るところとなり天皇は捕らえられ、隠岐(おき)に配流(はいる)となります。親王は還俗(げんぞく)して、名を護良(もりなが)と改め、天皇の代わりとなって楠木正成(くすのきまさしげ)らと、幾多の苦戦にも屈せず機知を持った戦で大群を吉野城や千早城に引きつけました。この間にも親王の討幕を促した令旨(りょうじ)に各地の武士が次々と挙兵し、中でも足利尊氏(あしかがたかうじ)、赤松則村(あかまつのりむら)らが六波羅探題(ろくはらたんだい)を落とし、また新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉に攻め込み、鎌倉幕府は北条一族と共に滅びます。後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は京都に還御(かんぎょ)され、親王はこの功により兵部卿(ひょうぶきょう)・征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となら
れます。しかし尊氏は征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)を欲し、諸国の武士へ自らが武家の棟梁であることを誇示した為、親王は尊氏による幕府擁立を危惧し、兵を集めます。ところが、逆に高氏の奸策(かんさく)に遭い捕らえられ、鎌倉 東光寺(とうこうじ)の土牢(つちろう)に幽閉されます。建武(けんむ)元年(1334年)の11月15日の事です。建武2年(1335年)7月23日 残党を集め鎌倉に攻め入った北条時行(ほうじょうときゆき)の軍に破れた尊氏の弟、足利直義(あしかがただよし)は逃れる際に、家臣 淵辺義博(ふちべのよしひろ)へ親王暗殺を命じました。義博の凶刃に対して、親王は9ヶ月をも幽閉された御身では戦う事も出きず、御年わずか28歳という若さでその苦闘の生涯を薨(こう)じられました。明治2年2月、明治天皇は建武中興に尽くされ、非業の最期を遂げられた護良親王(もりながしんのう)に対して、遥かに想いを馳せられ、親王の御遺志を高く称え、永久に伝えることを強く望まれました。親王終焉の地、東光寺跡に神社造営のご勅命を発せられて、御自ら宮号を「鎌倉宮(かまくらぐう)」と名づけられました。なお、明治6年4月16日、明治天皇は初めて鎌倉宮に行幸遊ばされました。お休みになられた行在所は現在、宝物殿・儀式殿となっております。

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緑に包まれた静かな宮です。(といっても今日は人が多いのですが)
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↑写真 左奥が幽閉されていた「土牢」
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藤棚も綺麗でした。

2010-05-02

姉崎神社

ゴルフ帰りに、近くの「姉崎神社」を参拝。
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延喜式式内社の一つ。(上総国には、4つしかない)日本武尊が東征の折、走水の海で暴風雨に遭い、后の弟橘姫がその身を海中に投じた事によって、無事上総国へ着くことができた。この弟橘姫を偲び、風の神
(志那斗辨命・シナトベノミコト)を祀ったのが起源であり、後に、景行天皇が日本武尊を、このあたりを支配していた上海上国造(かみつうなかみのくにのみやっこ)の忍立化多
比命(おしたてけたひのみこと)が天兒屋根命、塞三柱神、大雀命を合祀したらしい。*志那斗辨命は、日本書紀に出てくる風の神である。
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ご神紋」は、「五七の桐」だろう。いたるところに配されていた。静かで趣のある神社だ。北側に神門があるが、これがまた立派な門だった。
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さすが式内社だ。

2010-04-24

金鑚神社(かなさな)

今日は、東京へ戻って初めてのゴルフ(コンペ)で埼玉の本庄児玉まで足を運んだ。4時半起きの5時出発。2時間かけての小旅行だ。20分以内に10以上もゴルフ場があった宮崎が懐かしい。その上早出にもかかわらず6時頃の関越自動車道はすでに渋滞。恐ろしいや関東。さてゴルフだが、1ヶ月ぶりにクラブを握ったので、さすがにスコアは散々。やはり練習せねば。帰宅前に、近くに旧武蔵の国二宮であった「金鑚神社」があると調べていたので参拝しに。
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旧官幣中社にして名神大社そして式内社と由緒ある神社(もとは金佐奈神社)である。御祭神は、天照大神、素盞嗚尊です。日本武尊が配祀されています。社伝によると、景行天皇の四十一年、日本武尊東征の帰途、東国鎮護のために、伊勢神宮の伯母である倭姫命から草薙剣に副えて、賜った火鑚金(火打石)を御霊代として、御室ヶ嶽に天照大神と素盞嗚命を祀ったのが創祀らしい。「金鑽」の社名は、社伝にあるように、火打石(火鑽金)が御魂代であることから起ったとする他に、金鑽=金砂と見る説がある。すると社名からして金山彦尊がご祭神だったのではと思う。近くには、蛭川という地名もあり出雲系の匂いがしてならない。
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特徴は、なんといっても「拝殿」のみで「本殿」がないこと。参拝者はご神体である神奈備「御嶽山」を祝詞屋を通じて拝する。「本殿」を持たない旧官幣・国幣社は、奈良の大神神社・長野の諏訪大社とこの「金鑽神社」のみ。非常に静かで清々しい空気の神社であった。
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参道には、重要文化財である「多宝塔」がある。ご神紋は「樫の葉」らしいが、みつけることができなかった。残念。

2010-04-17

根津神社

根津神社は今から千九百年余の昔、日本武尊が千駄木の地に創祀したと伝えられる古社である。ご祭神は「素戔嗚尊」。美しい鳥居と楼門をもつ。
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そして、社殿は拝殿の奥に幣殿・本殿と一宇に続く、総漆塗りの華麗な権現造り。
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2010-04-11

玉前神社

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玉前神社を参拝。上総一之宮にして旧国幣中社だ。ご祭神は玉依姫命。鎌倉以降、武家の崇拝は厚く、頼朝も政子の安産祈願をしたと伝えられる。残念ながら拝殿・本殿は改修のため見ることができなかった。
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ご神体は珠玉といわれているだけに、神輿の腹には、見事な宝珠の紋が付けられていた。ちなみに、神紋は「三つ巴」みたいだ。実は、もう一つ「鏡に御統みすまる」という紋があるはずなのだが、拝殿・本殿は見えず確認できなかった。残念。神輿には、大宮・若宮とあるが、一説によると、大宮が「玉前大神」で若宮が「玉依姫命」らしい。
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さて「玉前神社」といえば、春分・秋分の日のご来光の道で有名だ。この日、太陽の運行線が上総一ノ宮の玉前神社から島根の出雲大社を結ぶ。相模国の寒川神社、富士山、日蓮宗の聖地七面山、伊吹山、琵琶湖竹生島の弁財天、大江山の皇大神社、大山神社と名だたる聖地が並ぶのだ。北緯35度22~24のレイライン。これこそが、日本古代の隠された大いなる御技なのでは。おもしろい。
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2010-04-04

東京大神宮

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飯田橋のそばにある「東京大神宮」を参拝。明治天皇のご裁断を仰ぎ、東京における伊勢神宮の遥拝殿として明治13年に創建されたそうです。「東京のお伊勢さま」と称されている。御祭神は、もちろん天照皇大神、豊受大神。それほど広くない境内だが、近年の縁結びの御利益からか、若い女性がたくさん参拝していた。神前の結婚式を初めて行った神社としても有名。もとは、日比谷の大隈重信邸にあったそうだ。それにしても見事な千木・鰹木だ。
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ご神紋は「十六菊に花菱」のようです。
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2010-02-28

御朱印帳

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御朱印帳 8冊となりました。左上 全国一ノ宮御朱印帳(一ノ宮専用)、左下 素盞嗚尊を訪ねて御朱印帳(素盞嗚尊 主祭神専用)、真ん中上 鵜戸神宮・明治神宮(天孫族 天皇家専用) 真ん中下 大神神社・熱田神宮(出雲系及び国津神専用) 右上 太宰府天満宮(天神専用)、右下 神田神社(別格官幣社及び功績人物専用)

2010-02-14

検見川神社

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思いっきり地元の「検見川神社」を個人的公式参拝。(わたくし的には、ご朱印帳とデジカメを持参しているのが、公式参拝)ご祭神は素戔嗚尊。そして、東に宇迦之御魂神、西に伊弉冉尊を祀っている。もちろん本殿もそのため3つある。そして、神紋らしきものが三つ。
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中央「五瓜に唐花」東「焔宝珠」。ここまでは、納得。しかし西「九曜」。たぶんこれだけは、地元 千葉氏家紋からきてるのだろう。ちょっと違和感が。
しかし、本当の神紋は「三つ巴」とみた。拝殿に・・・
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見事な「三つ巴」紋。
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本殿は残念ながら、場所的に撮影が難しかった。

2010-02-12

赤坂氷川神社

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赤坂氷川神社を参拝。ご存じ、ご祭神は「素戔嗚尊」。奇稲田姫命、大己貴命(大国主命)が配祀されている。
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朱色でありながら、黒がきいているのか拝殿は、おごそかなたたずまい。
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ご神紋は「三つ巴」でした。

山王日枝神社










































山王日枝神社ご参拝。旧官幣大社にして、準勅祭社(東京十社)。大山咋神(おほやまくひのかみ)を主祭神とし、相殿に国常立神(くにのとこたちのかみ)、伊弉冉神(いざなみのかみ)、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)を祀る。別名「日吉山王大権現社」。山王鳥居が美しい。































当社は、江戸城の裏鬼門に位置しており、「皇城の鎮」にふさわしい。





















神紋は「丸に二葉葵」紋。本殿は残念ながら見る事が出来なかった。