2014-10-26

下御霊神社


2日目は、「下御霊神社」よりスタート。
大同二年(809)、不運の内に亡くなった 伊予親王(桓武天皇の皇子)とその母の藤原吉子の霊を慰めるため 承和六年(八三九)に仁明天皇によって創建されたという。
現在は、八所御霊(吉備大臣:吉備聖霊  崇道天皇:桓武天皇皇太子早良親王  伊豫親王:桓武天皇皇子、贈一品  藤原大夫人:伊豫親王御母、贈従二位藤原吉子命  藤原大夫:藤原廣嗣命  橘大夫:贈従四位下橘逸勢命  文大夫:文屋宮田麻呂命  火雷天神:菅原道真)をお祀りしている。

すなわち、平安時代に冤罪を被り亡くなられた貴人の方々の怨霊を御霊(ごりょう)として、お祀りしている神社なのです。 疫病災厄を退散し、朝廷と都をお守りする神社として崇敬されてきました。
神紋は「花沢瀉(はなおもだか)に水」という紋です。


京都御苑内 厳島神社


京都御所を取り囲む「京都御苑」の中には、いくつかの神社があります。南東部の旧九條家邸内の拾翠池の傍に「厳島神社」があります。
ここに、京都三珍鳥居の一つ「唐破風鳥居」を撮影に来ました。
京都三珍鳥居は、太秦にある蚕の社境内の三鳥居(みつどりい:三柱鳥居みはしらとりい)、ここ京都御苑の厳島神社の鳥居、北野天満宮の伴氏社の鳥居です。
あとで、北野天満宮の伴氏社も撮影に行きます。
島木と笠木が唐破風の形をしています。大阪生駒にある石切剣箭神社の大鳥居も確か「唐破風の鳥居」だった気がします。


護王神社



別格官幣社「護王神社」を参拝。蛤御門を出て、すぐ南側にあります。
ご祭神は、「和気清麻呂」公とその姉「和気広虫姫」です。

和気清麻呂と姉の広虫は、宇佐八幡宮神託事件の際に流刑に処せられながらも皇統を守りました。孝明天皇はその功績を讃え、嘉永4年(1851年)、和気清麻呂に護王大明神の神号と正一位という最高位の神階を授けた。明治7年(1874年)、護王善神堂を神社として護王神社に改称し、現在の場所に。
こちらの境内は、とにかく「イノシシ」だらけ。
和気清麻呂が宇佐へ配流の際に、道鏡から送り込まれた刺客に襲われたのを、突如現われた300頭の猪によって難事を救われたとの伝説から「いのしし神社」の俗称をもちます。
京都では、足腰の神様として広く親しまれている神社のようです。

神紋は「対い四つ藤」紋です。

白峯神宮


「白峯神宮」参拝。崇徳天皇・淳仁天皇を祀る。旧官幣大社です。社地は、蹴鞠の宗家であった公家・飛鳥井家の屋敷の跡地で、摂社の地主社に祀られる「精大明神」は蹴鞠の守護神でありことから、現在ではサッカーのほか、球技全般およびスポーツの守護神とされ、サッカーをはじめとするスポーツ関係者の参詣も多く、社殿前にはサッカーやバレーボールの日本代表チームや、Jリーグに所属する選手などから奉納されたボールなどが見られます。
神紋は、「十六菊」紋。


本殿は、流造のようです。少し見えにくかったです。
神宮らしく、右近の桜、左近の橘がありました。

大将軍八神社


大将軍八神社に参拝。ご祭神は、素戔嗚命、そして御子神八柱をお祀りしています。
平安京建設時、王城鎮護のため都の方除け乾(戌亥・北西)の天門守護として造営され、当初は大将軍堂と呼ばれたようです。
大将軍は陰陽道の方位神であり、とくに建築や転居、旅行などにおいて方角の吉凶を司る神であるため、長きにわたり民間の崇敬を集めました。
当社には、平安時代末期から鎌倉時代に かけての大将軍信仰高潮期に奉納されたと 思われる「神像」百余体が所蔵されています。 このうち、武装像、束帯像、童子像合わせて 七十九体が昭和四七(一九七二)年に重要 文化財に指定されているそうです。
神紋は「十六菊中桔梗」紋。
本殿は、権現造のようです。

北野天満宮 伴氏社 中山鳥居

 今年3月にも参拝しました「北野天満宮」。撮影し忘れた「伴氏社」の鳥居を写しに来ました。
こちらは、京都三珍鳥居の一つ。
鳥居は「中山鳥居」。そして、鳥居中央の額束が島木を貫通して笠木に至っています。通常は島木の下にあります。さらに、鳥居の足元(台石)に蓮弁が刻まれています。この鳥居は鎌倉時代に造られ、重要文化財に指定されています。

天満宮大鳥居を過ぎて参道 左手にあります。

平野神社


平野神社に到着。式内社(名神大社)にして、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社。
ご祭神は、北から
第一殿:今木皇大神 (いまきのすめおおかみ、今木神)
第二殿:久度大神 (くどのおおかみ、久度神)
第三殿:古開大神 (ふるあきのおおかみ、古開神)
第四殿:比売大神 (ひめのおおかみ、比売神/比咩神)

すなわち「平野神社」本殿は珍しく東面をしている。
「社殿が東面するのは、宮中神であったことによる」というが、その意味は不明。

平城京の田村後宮に祀っていた今木神(イマキノカミ)と、大和国平郡郡久度村(現奈良県葛城郡王子町付近、式内・久度神社あり)に祀られていた久度神(クド)・古開神(フルアキ)を、平安京遷都の延暦13年・当地に勧請・遷座し平野神社と称したという。その後、比売大神を祀っています。
今木神は百済系渡来人、特に百済王家に連なる和氏によって奉祀された神であることから、これを百済王家に求めると、和氏の始祖とされる純陀王子あるいはその父・武寧王などが推察される。
大鳥居をくぐると神門が見えてきます。
わりと広い境内の真ん中に拝殿があります。茅葺が苔むしており風格を感じさせます。

本殿は、中門と塀に囲まれています。神紋は「桜」。こちらは桜は有名です。
本殿は、「比翼春日造」その唯一性から「平野造」と言われております。非常に美しい本殿で暫く眺めておりました。



今宮神社



大鳥居から北へ約300m。美しい朱の楼門が見えてきます。大学時代によく訪れた(あぶり餅をたべに)「今宮神社」に参拝です。
境内は広々としており、大己貴命(おおなむちのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)、奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)の三柱の神をお祀りしています。
本殿も重厚で構えも相当な規模です。
徳川五代将軍綱吉公の生母桂昌院は、一説に西陣の八百屋に生まれ、その名を「お玉」と呼ばれたと伝えられます。三代将軍家光公の側室となって綱吉を生み、その後、将軍の生母として大奥で権勢をふるい、従一位の高位にまで昇り詰めた事から「玉の輿」の言葉の起源ともいわれています。
桂昌院は故郷を忘れず西陣の興隆につとめ、その氏神である当神社が荒れていると聞くと、今宮神社再興に社領百石を寄進して社殿を修復し、四基の鉾も新たに作られました。

いずれにしても、かなりの氏子に支えられている神社と言えます。

神紋は「松毬付き 左三階松」紋。

参拝を終えて、東南側の門を抜けると「名物 あぶり餅」屋が両サイドに二軒。今回は北川の元祖「一和」にてあぶり餅を戴く。(もう一軒は「本家かざりや」。
一皿500円です。お土産三皿分1500円を買って、いざ船岡山へ。







建勲神社(たけいさおじんじゃ)


京都市北区の船岡山(玄武を象徴する山です)の中腹にある「建勲神社」を参拝。
ご祭神は、<織田信長公>で織田信忠公を配祀しています。別格官幣社です。
境内は、船岡山の山頂にあり、三段になっており、社務所から一段上に「拝殿」。
さらに「本殿」前に中門があり、そこも少し階段があります。
本殿は、一間社流造の桧皮葺屋根です。
神紋は「五瓜に唐花」紋。言わずと知れた織田家の家紋ですから、写し忘れました。

境内からは、東の比叡山がハッキリと見る事ができました。


玄武神社


最後の参拝「上御霊神社」に向かう途中、「玄武神社」に立ち寄りました。ご祭神は、惟喬親王(文徳天皇第一皇子)。大徳寺の南、建勲神社の東側。今宮神社御旅所のすぐ東にあります。
玄武を顕す「亀」が手水舎にいました。
神紋は「十六菊」紋です。
本殿は「一間社流造」でした。





上御霊神社


本日、「下御霊神社」から始まった神社巡りも「上御霊神社」の参拝で締めくくりです。
こちらのご祭神は、八所御霊 。
崇道天皇:早良親王、
光仁天皇の御子、桓武天皇の同母弟
井上大皇后:光仁天皇の后
他戸親王:光仁天皇の子
藤原大夫神:藤原広嗣
橘大夫:橘逸勢
文大夫:文屋宮田麿
火雷神:菅原道真
吉備大臣:吉備聖霊 です。

両御霊神社は、怨みを抱いて憤死した人々、主に、政争に巻き込まれ、非業の死を遂げた人々を祟りを怖れて祀っています。

鳥居の奥には、かなり立派な神門があります。

こちらは、拝殿が境内真ん中にあります。
神紋は「有職桐」紋というそうです。

本殿は、享保十八年に下賜された賢所御殿の遺構を復原したものだそうです。

これにて、本日の神社巡りはおしまいです。本日のテーマは、人が怖れられ祀られた神社を中心に巡ってみました。