2012-06-30

三芳野神社

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「とうりゃんせ」の発祥の神社「三芳野神社」を参拝。大宮の氷川神社を勧請したとも、京都の北野神社を勧請したともいわれているが定かではない。後者から「とうりゃんせ」の天神様となっているのだろう。川越城築城により天神曲輪に位置することになり「お城の天神さま」と呼ばれた。城内にあることから一般の参詣ができなくなったのだが、信仰が篤いことから時間を区切って参詣することが認められた。しかし、この天神さまにお参りするには川越城の南大手門より入り、田郭門を通り、富士見櫓を左手に見、さらに天神門をくぐり、東に向かう小道を進み、三芳野神社に直進する道をとおってお参りしなければならなかった。また、一般の参詣客に紛れて密偵が城内に入り込むことをさけるため、帰りの参詣客は警護の者によって厳しく調べられた。そのことから「行きはよいよい、帰りは怖い……」と唄われるようになり、それが伝わっていったものと思われる。 主祭神は、素盞男尊・奇稲田姫命である。 007
神紋は「三つ巴」のようです。本殿の屋根に紋が見えます。本殿は権現造りですね。 005
社紋は「大聖寺梅鉢紋」のようです。天神様にごだわっているのでしょう。

川越氷川神社

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今日の目的地「川越氷川神社」を参拝。大鳥居の扁額は、勝海舟による。 もちろん、主祭神は、素戔嗚尊・奇稲田姫命・大巳貴命・脚摩乳命・手摩乳命。 欽明天皇二(540)年九月十五日鎮座、武蔵国造が大宮氷川神社より分祀、奉斎したという。のち室町時代の長禄元(1457)年、川越城の築城にあたった太田道灌は篤く当社を崇敬し川越城の守護神とした。小田原北条氏滅亡後に関東を支配した徳川家康は重臣を川越城主として江戸北方の守りにつかせ、以後代々の城主が川越総鎮守として崇敬してきたという。 036
入母屋造銅板葺向拝付の拝殿は均整のとれて美しい。 027 031
本殿は、写真をちゃんと撮れる場所がありませんでした。 神紋は、「八雲」 022
そして境内末社に何故か「柿本人麻呂神社」が。子孫である綾部家が戦国時代にこちらに移り住んだ 時に勧請されたそうです。 033

2012-06-17

島穴神社

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ゴルフコンペの前に神社を2つ参拝。まずは「島穴神社」。延喜式内社である。 ご祭神は、風の神といわれている「志那都比古尊」および「倭比売尊」である。 紀記神話によれば、景行天皇40年、日本武尊の東征の際に走水の海で暴風雨に遭い、妃の弟橘姫の犠牲によって上総に上陸することができた。社伝では、そのとき弟橘姫が大和国の龍田大社の神に、無事に上総まで航行させてくれるのなら風鎮めの神を祀ると祈ったので、日本武尊は弟橘姫命の遺志に従いこの地に志那都比古尊を祀ったと伝える。日本武尊の歿後、日本武尊の父の景行天皇は日本武尊東征の縁の地を歴訪し、当社に日本武尊命・倭比売尊を合祀した。 008
すぐ近くの姉埼神社も同じ由緒を持っており、当社の御祭神と姉埼神社の御祭神・支那斗弁命〔しなのとべのみこと〕は夫婦神とされる。 009
神紋は「五七の桐」のようです。千葉湾岸の由緒ある神社の多くは「五七の桐」紋みたいです。 012
本殿は流造です。 007
境内には写真の天神社を始め多くの末社が祀られておりました。 017
朝まだ早かったので灯籠には灯がついていました。

飽富神社(あきとみ)

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続いて「飽富神社」に参拝・こちらも延喜式内社である。 ご祭神は、倉稻魂命。社伝によると創建は綏靖2元年で天皇の兄・神八井耳命が創建したと伝えている。 022
拝殿は入母屋造り。 023
龍の彫刻が美しい。 028
本殿は流造ですが、拝殿と繋がっており権現造りとなっていました。こちらも神紋は「五七の桐」。 026 
ご神木が凛々しく朝の境内を引き締めておりました。

2012-06-01

御田八幡宮


御田八幡宮を参拝。延喜式内社 武蔵国荏原郡 稗田神社(ひえだじんじゃの論社とされている。誉田別尊命(ほんだわけのみこと、八幡神)を主祭神とし、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、武内宿禰命 (たけのうちすくねのみこと)を配祀とする。
わかりにくいですが「権現造り」のようです。
右手には「天神社」がありました。現在はかなり手狭な境内のようです。