2009-07-26

西都 記紀の道

雨の中、西都市訪問。目的は、「記紀の道」探訪。まずは、再拝「都萬神社」へ。

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ご祭神は、コノハナサクヤヒメ。天孫降臨ニニギノミコトの妻である。コノハナは桜の花。その為、当神社のご神紋は、「桜」。拝殿にも神紋が施されている。

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ご当地は、日向伝説のニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの出逢いと結婚・出産にちなんだ伝承j地を辿る「記紀の道」というのがある

①御船塚・・・地上に降り立ったニニギノミコトの一行が舟に乗って着いたところで、その時の舟が祀られている。

②逢初川・・・ニニギノミコトが、水を汲みにきていたコノハナサクヤヒメと初めて出会い、見そめられた場所

③八尋殿・・・結婚したニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの新婚生活のために建てられた御殿の跡。

④無戸室・・・コノハナサクヤヒメが出産のために造った産屋の跡。

⑤児湯の池・・・火の中で生まれたホデリノミコト(海幸彦)、ホスセリノミコト、ホオリノミコト(山幸彦)の3神の産湯に使ったところ

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是非、お尋ねあれ!!

銀鏡神社

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西都から、米良街道を山奥へどんどん進んでいく。1時間約25km。そこに「銀鏡」という地名がある。<しろみ>と読む。その細い道沿いから川をわたった所に「銀鏡神社」はある。ご祭神は、イワナガヒメ。大山津見神(オオヤマツミノカミ)の娘にして、コノハナサクヤヒメの姉にあたる。

ニニギノミコトがコノハナサクヤヒメを娶るとき、大山津見神は木花佐久夜姫と共に、姉の石長姫(イワナガヒメ)も一緒に結婚させるつもりだった。しかし、石長姫はご面相がよくなく、迩迩芸命は一日で石長姫を親元に帰してしまったのだ。子孫たちが、木の花の咲くように栄え(木花佐久夜姫)、岩のように永く続く(石長姫)という願いは絶たれた。これにより、天皇家の子孫たちの寿命は短いものとなったという日向伝説がある。この境遇を嘆いた石長姫が、わが姿を映す鏡を遠くへ放り投げたところ、これが西都市銀鏡(しろみ)付近(米良山中、龍房山)の大木の枝にかかり陽光、月光を浴びて白く輝いていたという。これが今の「銀鏡神社」の場所だという。もちろん、御神体はこの鏡である。12月には、ここで銀鏡神楽 三十三番が奉納される。

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2009-07-19

宮崎神宮

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過去3年、初詣にて会社で御祓いをしてもらっている「宮崎神宮」。はじめて一人でゆっくり参拝。地元では「神武さま」で通っている。ご祭神は、言わずと知れた「神日本磐余彦尊:かむやまといわれひこのみこと」。別宮は、イワレヒコが生まれたとされる高原町の狭野神社だ。左右に両親である、ウガヤフキアエズノミコト、タマヨリヒメが配祀されている。創建は、イワレヒコの子孫、阿蘇神社(肥後一ノ宮)の祭神タケイワタツノミコトである。神宮だけあって、いたるところに十六八重菊の神紋がほどこされている。しかし、宮崎神宮の神紋は「三つ割菊に矢」である。ここは、由緒にもはっきりと描かれているが、建物には見つからない。やはり社務所だ。あった。入り口の扉に。社務所に職員でお願いして、扉を閉めてもらい写真を撮らせてもらう。それが下の写真だ。

*神宮とは、天皇・皇室の祖先神や大和平定に功績のある特定の神を祭神とする神社をいう。全国に23社しかありません。

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再拝 青島神社

神紋を撮影するために、「青島神社」も再拝。ここでは、至る所に神紋が使われていた。まずは、大鳥居。

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「青島神社」のご祭神は、彦火火出見命(ヒコホホデミノミコト)すなわち山幸彦。そして、ご神紋は「十六弁八重菊に青」という菊紋の変形である。真ん中の文字は、青には見えないが、青と読むらしい。拝殿にも、賽銭箱にも使用されていた。

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2009-07-18

再拝 都農神社

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都農神社には、ご神紋が二つある。「十六菊」そして「丸に一」。天皇家につながる「十六菊」はあとで加えられたのであろう。なにしろこの神社に「菊」は明らかに不似合いだからだ。しかし、肝心の「丸に一」の神紋は建物のどこにも飾られていない。御由緒にも「十六菊」しか記載されていない。地元出身の女子社員に聞いたところ、夏のお祭りには、皆、「丸に一」の神紋がついた法被を着るというのに。社務所でどこかに使われていないのか?尋ねるが、全く使われていないとはっきりいう。残念。しかし見つけた。ふざけるな!あるじゃないか。それも何と社務所に入り口の軒の下にはっきりと!(写真:下)

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何故隠すのか?出雲系の神紋は、「有」・「大」など文字が使われている場合が多い。「一」も当然、出雲系。ご祭神:大己貴命、摂社:素盞嗚神社、末社:熊野神社。まさしく出雲系。やはり、都農神社は、天孫族お膝元の日向国の謎の神社だといえよう。

再拝 天岩戸神社

いざ 高千穂へ。3度目の訪問。まずは天岩戸神社でご朱印をいただき、社務所に頼んで、禁足地(神職でさえ)である岩戸を眺めることができる「天岩戸」遥拝所へ案内してもらう。拝殿(↓写真)の後ろへ向かい、岩戸川を超えで<岩戸>を眺める。まず禊(みそぎ)払いをして鍵のかかった遥拝所へ。

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残念ながら、遥拝所は撮影禁止。ご神体である岩戸は、拝殿真後ろではなく、すこし左にあるので、遥拝所の軒は、その方向に少し斜めに木が組まれていた。この拝殿があるのは、西本宮といわれている。天岩戸神社には、東本宮というのが、岩戸川の向こうにあるので、そちらにも参拝。たぶんほとんど訪れる人はいないのだろう。誰もいなかった。岩戸伝説でお隠れになった天照大神が岩戸よりお出ましの際、この東本宮の土地にお鎮まりになったとされます。ここ東本宮は、直接的に大神の息吹に触れ、ご加護をいただくための貴重な場所でもある。



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西本宮が大日孁尊(おおひるめのみこと)を祀るのに対し、この東本宮が天照皇大神を祀る。まあ、別称ではあるが知っておきたいところだ。参道の途中に天鈿女 (あめのうずめ)の像があったのでパチリ。

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二箇所の天孫降臨伝承地

天孫降臨の記述は、古事記に「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降りまさしめき」とある。また日本書紀には「日向の襲の高千穂のくし日の二上峰に至りて・・・」とある。この二箇所に鎮座する神社を訪ねた。もちろん誰一人もいない。

まずは「槵觸神社」、 くしふる と読む。もちろんご神体は、くしふる山だが、高千穂町の中にあるちいさな小山であった。しかし拝殿までの階段はかなりのもの。ぜいぜい言いながら登っていった。ご祭神は、天児屋根命  経津主命 天津彦々火瓊々杵尊  天太玉命  武甕槌命。

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もう一つは、「二神神社」。

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高千穂の町並みを離れ、五ヶ瀬へ向かう道から奥深く、離合も困難なほどの狭い道を延々と進むと、二上山が見えてくる。その中腹に「二上神社」はある。もちろん人っ子一人いない。ご祭神は、伊弉諾尊 イザナギノミコト 伊弉冉尊 イザナミノミコト である。こちらも拝殿までの階段が恐ろしく急で多い。途中で休みながら何とかたどり着く。

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ご神体「二上の峯」に向かって参拝。

2009-07-12

東霧島神社

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今週は、先週の三輪山に続き、宮崎の神社めぐり。まずは、東霧島神社へ。東→つま と読む。霧島六社権現のひとつ。ご祭神は、伊弉諾尊

(下の写真)

ここには、鬼が一夜で作ったとされる「鬼岩階段」・・・確かにごつごつの石で登るのに、しくはくした急な階段だ。「割裂神石」・・・伊弉諾が十握(とつか)の剣で斬ったカグツチの命が化身した石。などがある。そしてご神宝が、その十握(とつか)の剣である。



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霞神社

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地元では白蛇様でおなじみの「霞神社」へ。小高く聳える高台(霞岡)鎮座しており、眺めも抜群。ご祭神は、何故か「大己貴命」「少彦名命」の出雲の神様。霧島の地にありながら・・・神紋を見てみると、「亀甲剣花菱」。亀甲は、出雲:素盞嗚系の証拠でもあるが、剣花菱は、天孫系の抵抗か?いずれにしても、この日向にあって数少ない「大己貴命」を祀る神社だ。

さて、拝殿の右奥に「白蛇様」を祀る祠があり、ここからの眺めが最高であった。(下写真)

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高千穂河原 古宮址

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高千穂河原にある霧島神宮 古宮址を訪ねる。正式名は「霧島神宮古宮址天孫降臨神籬斎場」。今年一番の暑さを忘れさせてくれる涼しさだった。さすが標高970mだ。登山客はここから、高千穂峯と中岳・新燃岳を目指す。駐車場から200m程歩いたところに古宮はあった。勿論、ご神体は後ろの「高千穂峯」であろう。あいにく雲がかかり初めて山頂が隠れてしまった。鳥居を北に眺めると中岳が見えた。(下の写真)

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止上神社

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梅原猛「天皇家のふるさと日向をゆく」に掲載されている、鹿児島県国分市にある隼人(ハヤト)の神を祀っていたといわれる止上神社を見つけた。現在のご祭神は、彦火火出見尊であるが、後方の尾群山を御神体としている。姿が美しいので写真を一枚。

2009-07-05

八坂神社

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京都では、賀茂別雷神社と八坂神社へ参拝。まずは、八坂神社を紹介。大学時代4年間でたぶん一度だけ、それも通り過ぎただけかもしれない祇園社「八坂神社」は、言わずと知れた「素盞嗚命」をお祀りする神社で、その総本山ともいえる。また、櫛稲田姫はじめ、八人の御子が揃って祀られている。八人の御子とは、八島茶見命(八島野尊)・五十猛尊・大屋津比賣命・抓津比売命・大歳神・宇迦御魂神・大屋毘古命・須勢理比売命である。明治以前は、「祇園感神院」あるいは「祇園社」と称していたが、明治の神仏分離により、八坂神社となった。素盞嗚尊は、牛頭天王(ごずてんのう)と同一視され、牛頭天王は武塔天神とも称する、厄神である。薬師如来を本地仏としている。

上の写真は「西楼門」です。下の写真が「本殿」です。

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賀茂別雷神社

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山城国一ノ宮 賀茂別雷(かもわけいかずち)神社。通称:上賀茂神社。ご祭神は、賀茂別雷命。賀茂御祖神社(下鴨神社)とともに古代の賀茂氏の氏神を祀る神社である。

社伝:「日向国曽の峰に降臨した賀茂建角身命は、神武天皇を先導して大和の葛木山に宿り、さらに山代国岡田の賀茂に移り、その後、久我国の北山基に鎮座。丹波国神野の神伊可古夜日売を娶り、玉依日子・玉依売が生まれた。ある日、玉依日売が石川の瀬見の小川で川遊びをしていると、丹塗矢が川上から流れ下って来た。これを床のまわりに置いていたところ、玉依日売は妊娠し、男子を産んだ。成人し、建角身命が、「汝の父に酒を飲ましめよ」と言ったところ、天に向かって杯を手向け、昇天した。それが、祭神:賀茂別雷命である。」

果たして、賀茂別雷命とは?下鴨神社のご祭神が、賀茂建角身命。また名を八咫烏。社伝によると、賀茂別雷命の祖父らしいが、上・下の関係をみると少し怪しい。もし祖父・孫の関係なら、上賀茂が、建角身命で、下鴨が別雷となるのが普通だ。すると賀茂別雷命とは?などと考えながら参拝するが楽しい。

さて下の写真は、細殿と盛塩の起源といわれる「立砂」で、ご神体の神山(こうやま)<神社北2キロの山>をかたちどったものらしいです。

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2009-07-04

三輪山へ

009_3 大学時代の合唱団の記念コンサートのため京都へ。夕方のコンサートなので、朝から出かけ、大阪空港からレンタカーを借りて、兼ねてから行きたいと思っていた「三輪山」へ向かった。大和の神奈備として、古代最も尊崇された「大神神社」に行かねば。。。。

味酒(うまさけ) 三輪の山 青丹(あおに)よし 奈良の山の 山の際(ま)に い隠るまで 道の隈 い積るまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放(みさ)けむ山を 情(こころ)なく 雲の隠さふべしや {額田王}

写真は、パンフレットなどによく載っている、御神体「三輪山」と大鳥居が見える場所を探して撮ったものです。いい場所が見つかりました。

大神神社

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古代日本史は、三輪山・大神神社を抜きにしては語ることはできない。伏せられた或いは改竄され
た歴史を紐解くとき、いつもこの三輪山の存在から語られる。梅原猛氏は、三輪山こそ「ヤマタノオロチ」だとし、また出雲天孫族以前の大神「ニギハヤヒ」を祭る山だとも語られる。真実は未だにわからない。ご祭神は、大物主大神(おおものぬしおおかみ)またの名を倭大物主櫛甕玉命(やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)である。
浄めの手水舎は、もちろん「蛇」であった。巳(ミイ)さんから清めの水をいただくのだ。





















拝殿も重厚感ただよう檜の皮葺き。奥に、三つ鳥居があり神霊「三輪山」を拝する。

 
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オリジナルの御朱印帳を購入。やはり、朱印は「大神神社」から。もう一冊、全国一ノ宮御朱印帳も一緒に。一枚目は、大和の国一ノ宮「大神神社」が似合う。

大神神社摂社

まずは、「狭井坐大神荒魂(さいにいますおおみわあらみたま)神社。

005 御祭神は、狭井坐大神荒魂大神。社殿左手奥に、ご神水の井戸があり病気の平癒に霊験あらかたという。そして、三輪山への入山は、この拝殿右手から登る。残念ながら時間がないので断念。また必ず登りに来てみたい。










そして、若宮社 大直禰子神社。

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古事記には、<崇神天皇の時代に疫病が大流行し、三輪山の大神が天皇の夢枕に現れ、「意富多多泥古」という者を探し出し、自分を祀らせよ、さすれば祟りもあさまるであろう>と告げた。その大田田根子を御祭神としている。その手前に巨大な「おだまき杉」の株が。三輪の七本杉らしい。

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この他、日向御子神(たぶん神武天皇)を祀っている「神坐日向神社」。唯一この桜井で天照大御神を祀っている「檜原神社」にも行きたかったが、時間がなく断念。残念!

しかしやはり大神神社には、素盞嗚の変名とされる神や一族を祀った、摂社が多く見られた。神宝社(熊野夫須美神・御子速玉神)、市杵島姫神社、貴船神社(おかみ神)などなど。

鏡作坐天照御魂神社

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三輪山のそば(西側)に、鏡作と名の付く神社が、5つある。八尾の鏡作坐天照御魂神社、石見の鏡作神社、宮古の鏡作神社、保津の鏡作伊多神社、小坂の鏡作麻気神社だ。その中で鏡作坐天照御魂神社を参拝。祭神は、中央に天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと){旧事本紀では天照国照彦火明櫛玉饒速日命}、左右に、鏡作部の祖・石凝姥命(いしこりどめのみこと)、天糠戸命(あまのぬかとのみこと)の3神です。石凝姥命は、天照大神がスサノオの乱暴に怒って天岩戸に隠れた時、彼女を岩戸から誘い出す方便として八咫鏡(やたのかがみ)を作った神で、天糠戸命は、その父である。

「崇神天皇6年、この地において日御像の鏡を鋳造し、天照大神の御魂となす。今の内侍所の神鏡是なり。当社はその(試鋳せられた)像鏡を天照国照彦火明命として祀れるもので、この地を号して鏡作と言ふ。」

社宝として三神二獣鏡が伝えられるが、これは三角縁神獣鏡の外区が欠落したものらしい。

鏡作神社は、三輪山山頂から冬至の日に朝日が昇るといわれている。また、出雲にある岩見という地名も興味深い。物部氏の流れを感じる。

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大和神社

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大和神社(おおやまと)。ご祭神は、中殿に日本大国魂大神、左殿に八千戈大神、右殿に御年大神を祀る。社伝によれば、崇神天皇の代、国内に疫病が蔓延したため、宮中に祀られていた天照(あまてらす)大神と倭大国魂(やまとのおおくにたま)神の神威を畏れて、二神を宮中の外に祀ることにした。崇神天皇6年、天照大神は、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)によって笠縫邑で祭祀されることになり、一方、倭大国魂神は淳名城入姫命(ぬなきのいりひめのみこと)に託して祀ることになったが、淳名城入姫命は髪が落ち体がやせて、この神を祀ることができなかった。そこで、翌年市磯長尾市(いちしながおち)に命じて鎮め祀らせたという。

第二次大戦中、世界最大の不沈戦艦といわれた戦艦「大和」は、守護神として艦上で大和神社の分霊を祀っていたらしい。そのため戦艦大和と運命を共にした、伊藤整第二艦隊司令長官以下2717柱の英霊、巡洋艦矢矧を中心とする第二水上特攻隊の3721柱の英霊が合祀され国家鎮護の神として祀られています。

もとは、現在の長岳寺の場所にあったらしいのですが、これは、大神神社ー石上神社を結ぶ線上に位置します。



何か因縁がありそうです。(地図を拡大してご確認ください)

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箸墓

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途中、箸墓古墳に寄る。卑弥呼の墓という説がある有名な古墳だ。三輪山の麓、「纒向遺跡」の南端の桜井市大字箸中に所在する前方後円墳。全長282m、後円部径157m、高さ22m、前方部幅125m、高さ13m。崇神天皇の叔母、倭迹迹日百襲姫尊命(やまとととひももそひめのみこと)陵 大市墓(箸大墓)とされている。

「日本書紀」崇神天皇10年9月の条
時に大神恥じて、忽ちに人の形となりたまふ。其の妻(みめ)に謂(かた)りて曰(のたま)はく、「汝、忍びずして吾に羞(はじみ)でむ」とのたまふ。よりて大虚(おほぞら)を践(ほ)みて、御諸山(みもろのやま)に登ります。ここに倭迹迹日百襲姫命仰ぎ見て、悔いて急居。則ち箸に陰を撞きて薨(かむさ)りましぬ。すなわち大市(おおち)に葬(はぶ)りまつる。故、時人、其の墓を號(なづ)けて、箸墓(はしのはか)と謂ふ。この墓は、日は人作り、夜は神作る。

とあります。写真は礼拝所で、この古墳は陵墓に比定されているため、宮内庁管理になっていて、一般の人は立ち入り出来ないようです。

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石上神宮

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物部氏の総本山。物部氏の遠祖宇摩志麻治命(うましまじのみこと)をもって宮中に奉斎したと記し、崇神天皇七年物部伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が大臣のとき、詔により天社、国社を定め八百万神を祀らせ布留御魂神とともに石上高庭の地に祀ったのを創始とする「石上神社」を尋ねる。ご祭神は、布都御魂大神。さらに配祀として 布留御魂大神 布都斯魂大神。さらに宇麻志麻治命 五十瓊敷命 白河天皇 市川臣命。ご神体は、布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)である。この剣は、ヤマタノオロチを素盞嗚が斬った剣である。宇麻志麻治命は、素盞嗚の子「ニギハヤヒ」の長男。そして摂社に出雲建雄神社 がある。やはり出雲・素盞嗚系である。そうすると、布都・布留・布都斯は誰なのか予想は付くというものだ。

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三輪山より、山野辺の道の最北「石上神社」は、古社にふさわしい落ち着きのある静謐な社であった。