2010-08-09

須佐神社

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本日のメイン「須佐神社」を参拝。須佐之男命を主祭神とし、妻の稲田比売命、稲田比売命の両親の足摩槌命・手摩槌命を配祀する。須佐之男命の御終焉の地として御魂鎮の霊地、又御名代としての霊跡地であり、大神の本宮として大神奉祀の神社中殊に深い縁を有している。鳥居脇の社号標には「須佐大宮」と刻まれている。鳥居、隋神門、拝殿、本殿と少しずつ左にずれているのに気がつく。ご朱印をもらう時に禰宜さんに尋ねると、お帰りになる際にお尻をむけるので失礼にならないようにずらしているとのこと。ご神紋は「二重亀甲に蔓柏」。スサノオが出雲の国造りを終え、根の国の熊成の峰から柏の葉を投げたことからきているか。明日参拝する日御碕神社も「三つ柏」紋である。
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さて、この須佐神社には七不思議の伝えがある。

1・塩井(しおのい)
須佐之男命がこの潮を汲み、この地を清められたといわれている。この塩井は出雲大社の稲佐の浜に続いており、湧出に間渇があるのは潮の干満に関係があるからだとか。内用浴用に使うと元気になるという。
2・神馬(しんめ)
神社に奉献された馬は、どんな毛色の馬でも年を経るに従って白馬に変わるという。吉凶禍福(良いこと悪いこと、災いと幸せ)や国の大事を予知するといわれている。
3・相生の松(あいおいのまつ)
本殿の裏に雄松、雌松が一本になった松があった。今は枯れてなくなった。
4・影無桜(かげなしさくら)
昔、隠岐の国で稲が実らないときがあった。その原因は須佐大宮の境内の大きな桜が隠岐に影をもたらしたからということだった。桜を切ったことにより隠岐に稲が実るようになったが、その切り株から生えた桜は枯れずに今も残っている。
5・落葉の槇(おちばのまき)
須佐之男命の妃神である稲田姫がお産をされたあと、産具を槇(柏)の葉で包み、それを松の葉で綴って川に流した。それが、流れ着いたところに「槇と松」が生えたという。
6・星滑(ほしなめら)
須佐の中山の頂上あたりに、白い斑点がある岩盤がある。それが白く輝いて光が大きい年は豊作、光が小さい年は不作だという。
7・雨壺(あまつぼ)
神社の西を流れる素鵝川をずっと下った田の中に岩がある。その岩の穴をかき回すと須佐大神の怒りで洪水が起きるといわれている。

以上の7つだ。塩井は宮崎の西都にある「鹿野田神社」と同じだ。
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本殿は見事な大社造り。大杉と一緒に失礼ながら後方より撮影されて頂いた。

朝山神社・長浜神社

今日は、出雲駅前に宿泊予定。ホテルへ入る前に、「朝山神社」へ。朝山神社は、式内社・浅山神社に比定されている古社で、出雲国風土記に「浅山社」とある神社。ご祭神は、眞玉著玉之邑日女命(またまつくたまのむらひめ)。旧暦10月1日~10日に神在祭が行われ、ここに集まった神々は11日に出雲大社に向かうといわれている。すなわち最初に、神在祭が行われる神社だ。
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ご神紋は、「百合の葉」。さすがに誰一人参拝者はいませんでした。
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このあと、「長浜神社」へ参拝。
長浜神社は、国引きの綱の「薗の長濱」の地に鎮座し、国引きの神「八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)」を主祭神としてお祀りしている。
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「朝鮮半島の新羅の岬に余った土地があるぞ」と見つけられ、「国来い」と引き寄せて縫い合わせていかれました。
こうして出来た土地は島根半島の西端の杵築の岬の一帯です。この土地をつなぎとめるために立てた杭は三瓶山です。また引いた綱は長浜がそれです。写真は稲佐の浜から見えた三瓶山です。
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国引きの時の土地鎮めに使われた要石が境内右後方に祀られていました。
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なぜか三輪鳥居が???そうそう神紋は「五七の桐」でした。

今日の参拝はこれにて終了。夕食は、ネットで調べた出雲市内の「とみ田」というお鮨やさんに行きました。地物のお魚とおいしいイカなどを満喫。お酒はなぜか黒霧。やっぱり宮崎にいた者としては、黒霧が最高です。
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2010-07-31

麻賀多神社 奥宮・大宮

今日は、先日 81の自己ベストを出した「成田フェアフィールド」でプレー。しかしドライバー全くとい行っていいほど駄目。左肩が最近痛いという言いわけを割いびいても酷過ぎた。また、暑さから集中力も途切れがち、45:46の91とまたも80台にとどかず。しかし、真夏のゴルフは過酷だ。

さて、帰りに成田にある式内社をお参りして帰宅した。「麻賀多まかた神社」。奥宮と大宮と二つある。まずは、「奥宮」を参拝。ご祭神は「稚産靈命 ワクムスビノミコト」。神産みの際、火の神・火之迦具土神(カグツチ)を生んで火傷をし病に伏せった伊邪那美命(イザナミ)がしたゆまり(尿)から生まれたとされる(古事記で)。穀物・養蚕の神だ。
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ご神紋は、一目瞭然の「巴紋」しかし、これからいく大宮は、「麻の葉」なのだが、どうして「奥宮」は巴なのか?公津原古墳群(39号墳 分墳)と呼ばれる印旛国造・伊都許利命の墳墓が境内にある。その看板を見ると「伊都許利神社社務所」とある。奥宮は、伊都許利命(神武天皇の皇子神八井命の8代目の御孫)とかなり関係が深いのだろう。
伊都許利命は杉の木の下から7つの玉を掘り出し、それを神体として和久産巣日神を併せ祀ったらしい。この2神は「真賀多真(勾玉)の大神」と呼ばれた。さて奥宮をあとにして「大宮」へ。

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こちらは、今日行われる「例祭」の準備に忙しそうだった。拝殿前には神輿が。
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神紋もしっかり確認した。まさに「麻の葉」紋。
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当社のご自慢は、なんと言っても「東日本一」と謳われる大杉のご神木だろう。
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確かにすばらしい。
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由緒
今から約千三百七十年前 (聖徳太子時代)現在の稷山に新 たに宮殿を建て麻賀多大宮殿と 称された、此の大杉は其の当時に 植えられたもので太さ八m高さ四十m 餘りで其のお姿は誠に威容 其のものであります正に東日本一と 云われる此の大杉(御神木)は遠い遠い 昔の日本の歴史を物語ると共に かつ多くの伝説を秘めた此の年輪の 雄大さは千古不動の御神威と 御神徳が示されて居ります今日では 特に不老長寿祈願の御神木として 崇拝され昔から多くの祈願が行なわれ 大願成就前には稍えより霊光が輝き 神のお告げがあると云い傳へられて居ります

2010-07-19

安房神社・洲崎神社

安房国には、一之宮が二つある。1つは、「安房神社」もう1つは「洲崎神社」。安房国は、その昔、四国の忌部一族が海を渡って住み着いたとされており、その始祖神である「天太玉命アメノフトダマノミコト」とその后である「天比理刀咩命アメノヒリキメノミコト」をそれぞれの神社が祭祀している。さて渋滞覚悟で、館山方面へかみさんとでかけたが、さほど混むこともなくあっさり館山へ。嬉しい誤算。さてまずは「安房神社」へ。020
まっしろな「神明鳥居」が印象的だ。安房神社は、上の宮と下の宮のニ宮が境内にある。上の宮のご祭神が「天太玉命」で下の宮は、安房に渡った「天富命」である。
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神紋は「菊花」紋と「陰酢漿草紋」だが、建物には「菊花」紋しか使われていないようだ。お札売り場の幕に「陰酢漿草紋」があったので撮影させてもらった。 *酢漿草・・・かたばび
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続いて、「布良崎神社」へ寄った。ここは、元の安房神社があった場所だ。神社そのものは、寂れて規模も小さいが、写真をご覧あれ!!
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ニの鳥居、一の鳥居、広がる海、そしてその先には少し雲に隠れていますが「富士山」。(クリックして拡大すると見えるかな?)しかし、あの電柱はどうしようもない。T電力さん ありえない無作法さです。
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ご祭神は天富命。後に須佐之男尊、金山彦尊を合祀しているらしい。布良崎神社の大神輿は須佐ノ男尊(すさのおのみこと)を祭り、神輿「大天皇様」と呼ばれているそうです。



さてもう一つの一之宮「洲崎神社」へ
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「洲崎神社」本殿は、めちゃめちゃ急な階段を登ったところにあります。そして後方の御手洗山全体が神域である。神紋は「十六菊」紋のようです。
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そして、ここも参道が海へ続いているのです。
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ご朱印をもらう合間に砂浜へ行ってみました。
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海に向かって神明鳥居がたち、やはりその向こうに「富士」が。
再び感動[E:think]

2010-07-03

相模国一之宮 寒川神社

今日は、神奈川県 厚木インターから北へ40分程いった「長竹カントリー」というところでプレーをした。ゴルフは、45:46=91と久しぶりの90台と精彩をかいた。

せっかくこちらまで来たので、帰りに「相模国一之宮 寒川神社」へ参拝。
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現在のご祭神は、寒川比古命 寒川比女命。しかし、実はこの祭神は大正時代に確定されている。本来のご祭神はどなたなのか?不明らしい。神紋の三つ巴からすると、八幡神かスサノオが本来のご祭神かもしれない。比女が配祀されている点からみると、スサノオ・櫛稲田姫というペアが妥当だろうか。

一の鳥居から1km北へ参道が伸びており、現在の境内は三の鳥居と石橋(上写真)から始まる。
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夕方の優しい風が抜ける両脇の木々を抜けてしばらくすると、見事な楼門が目に飛び込んでくる。
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楼門をくぐると、東西の回廊をもつ、拝殿・本殿(権現造り)が目の前に。
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本殿は、珍しく西南を向いていた。東京の裏鬼門を護っているかのようだ。
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そもそも「寒川神」とはなんなのか?神紋の「流れ三つ巴」からすると、やはり水神との説が正しい気がする。

2010-06-19

レイライン 確認

日本の神秘「レイライン」をGoogle Earthで確認してみた。

太陽の運行線が上総一ノ宮の玉前神社から島根の出雲大社を結ぶ。相模国の
寒川神社、富士山、日蓮宗の聖地七面山、伊吹山、琵琶湖竹生島の弁財天、大江山の皇大神社、大山神社と名だたる聖地が並ぶ神秘のレイラン。
 果たしてGoogle Earth では?
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クリックして拡大してご覧ください。お見事!!一直線。



2010-05-23

千葉 寒川神社

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千葉市 「寒川神社」に参拝。千葉郡 ニ座 式内社かとも言われている神社だ。(「寒川神社」は船橋市の「二宮神社」とも言われている)ご祭神は、寒川比古命 寒川比賣命。天照大御神を配祀する。
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ご神紋は、二つ。裏紋は千葉氏の家紋「月星紋」そして、写真にある珍し紋だ。「八稜鏡ハチリョウキョウ紋」。八稜鏡とは、八咫鏡を図案化したもの。
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千木・鰹木をみると、現在では天照大御神を第一としているようだ。

千木・・・屋根の両端で交叉させた木。通常、祭神が男神の社は千木を外削ぎ(先端を地面に対して垂直に削る)に、女神の社は内削ぎ(水平に削る)にしている。

鰹木・・・屋根の上に棟に直角になるように何本か平行して並べた木である。鰹木の数は、奇数は陽数・偶数は陰数とされ、それぞれ男神・女神の見分けができる。

千葉 二宮神社

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船橋市にある千葉の式内社「二宮神社」に参拝。下總國千葉郡ニ座のうちの一つに 「寒川神社」とあるのが、この「二宮神社」だろう。千葉市内にも同名の「寒川神社」があるのですが、こちらの二宮神社の方が有力のようです。ご祭神は、速須佐之男命。稻田比賣命 大國主命を配する。
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神紋は「亀甲に七曜紋」。千葉氏の影響だろう。(千葉県内の神社は、千葉氏に加護を受けていた関係から千葉氏の家紋「月星紋」を神紋としている神社が多いのである。月星紋は、千葉氏の妙見信仰の顕れ)

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社殿は、銅板葺の権現造り。彫刻も見事なものだった。


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千葉 蘇我比咩神社

式内社 千葉郡 ニ座の一つ「蘇我比咩神社」を参拝。
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非常に小さな神社であった。ご祭神は、蘇我比咩大神 。後に天照大神、応神天皇などを配祀。
<蘇我比咩神社御縁起>
今から壱阡五百年位前里人の守り神として祭られており、その後第十二代景行天皇の皇子であらせられた日本武尊命が東国地方の夷達を統一すべく、弟橘姫を始め多数の家来をつれて軍船に乗り千葉沖にさしかかったところ、風浪が強くなり船が沈没の危険にあった時、弟橘姫は竜神の怒りを静めんと我が身を海中に沈め、この時一緒に同道して来た五人の比咩等も共に海中に身を投じた。その内の一人蘇我大臣の娘はこの下の海辺に打ち上げられ、里人の手厚い看護により蘇生することが出来、都に帰ることが出来た。この里人の行為に深く感激し、第十五代応神天皇の特別の命により、蘇我氏がこの周辺の国造として仁政をつかさどった。代々蘇我氏は「神紋は「五七の桐」のようだ。東京湾そばにある千葉の式内社三社「蘇我比咩、姉埼、飫富」はみな「五七の桐」を神紋としているのは偶然ではないだろう。
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拝殿はかなり小さなものであった。
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2010-05-04

鶴岡八幡宮

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相模国一之宮にして旧国幣中社「鶴岡八幡宮」を参拝。壮麗な神門(楼門)と拝殿に目を奪われた。朱、金、緑などに彩られた装飾が実に美しい。



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そして至る所に数々の「三つ巴」紋。

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さすが、源氏のお膝元です。

さて境内には、頼朝公をお祀りする「白旗神社」もありました。

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クリック(拡大)してご覧ください。神紋は「笹竜胆」紋です。おかしいですね。清和源氏の嫡流が村上源氏の笹竜胆紋を使用したはずがないのですが、後世になってごちゃ混ぜになったのでしょうね。まあ、鎌倉市自体の紋章も「笹竜胆」なくらいですから、しょうがないでしょうか。そして、良く見てください手前の賽銭箱の紋「ニ引き両」紋です。これは、足利家の家紋です。当然かかわりがあったのでしょう。それとも八幡太郎義家がお上から「五七の桐」紋を賜り使用したと同時に「ニ引き両」紋も掲げていたという説があるので、ひょっとしたそちらから来ているのかもしれませんね。まあ深くは考えない様にしましょうか。

鎌倉宮

北方謙三の時代小説 南北朝シリーズを読んだ時から是非訪れたかった「鎌倉宮」を参拝。
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ご祭神が「大塔宮(おおとうのみや) 護良親王(もりながしんのう)」だからです。
ご由緒を記載しておきます。

護良親王(もりながしんのう)は延慶(えんぎょう)元年(1308年)に後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の皇子としてご誕生になりました。6歳の時に京都の三千院(さんぜんいん)にお入りになりますが、11歳で比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)に入室し、尊雲法親王(そんうんほっしんのう)と呼ばれ、天台座主(てんだいざす)となられます。当時、鎌倉幕府の専横な政治に、父帝の後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は国家の荒廃を憂えられ、親王と共に元弘(げんこう)元年(1331年)6月、比叡山にて討幕の挙兵をする手筈でした。しかし、この計画は幕府の知るところとなり天皇は捕らえられ、隠岐(おき)に配流(はいる)となります。親王は還俗(げんぞく)して、名を護良(もりなが)と改め、天皇の代わりとなって楠木正成(くすのきまさしげ)らと、幾多の苦戦にも屈せず機知を持った戦で大群を吉野城や千早城に引きつけました。この間にも親王の討幕を促した令旨(りょうじ)に各地の武士が次々と挙兵し、中でも足利尊氏(あしかがたかうじ)、赤松則村(あかまつのりむら)らが六波羅探題(ろくはらたんだい)を落とし、また新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉に攻め込み、鎌倉幕府は北条一族と共に滅びます。後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は京都に還御(かんぎょ)され、親王はこの功により兵部卿(ひょうぶきょう)・征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となら
れます。しかし尊氏は征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)を欲し、諸国の武士へ自らが武家の棟梁であることを誇示した為、親王は尊氏による幕府擁立を危惧し、兵を集めます。ところが、逆に高氏の奸策(かんさく)に遭い捕らえられ、鎌倉 東光寺(とうこうじ)の土牢(つちろう)に幽閉されます。建武(けんむ)元年(1334年)の11月15日の事です。建武2年(1335年)7月23日 残党を集め鎌倉に攻め入った北条時行(ほうじょうときゆき)の軍に破れた尊氏の弟、足利直義(あしかがただよし)は逃れる際に、家臣 淵辺義博(ふちべのよしひろ)へ親王暗殺を命じました。義博の凶刃に対して、親王は9ヶ月をも幽閉された御身では戦う事も出きず、御年わずか28歳という若さでその苦闘の生涯を薨(こう)じられました。明治2年2月、明治天皇は建武中興に尽くされ、非業の最期を遂げられた護良親王(もりながしんのう)に対して、遥かに想いを馳せられ、親王の御遺志を高く称え、永久に伝えることを強く望まれました。親王終焉の地、東光寺跡に神社造営のご勅命を発せられて、御自ら宮号を「鎌倉宮(かまくらぐう)」と名づけられました。なお、明治6年4月16日、明治天皇は初めて鎌倉宮に行幸遊ばされました。お休みになられた行在所は現在、宝物殿・儀式殿となっております。

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緑に包まれた静かな宮です。(といっても今日は人が多いのですが)
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↑写真 左奥が幽閉されていた「土牢」
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藤棚も綺麗でした。

2010-05-02

姉崎神社

ゴルフ帰りに、近くの「姉崎神社」を参拝。
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延喜式式内社の一つ。(上総国には、4つしかない)日本武尊が東征の折、走水の海で暴風雨に遭い、后の弟橘姫がその身を海中に投じた事によって、無事上総国へ着くことができた。この弟橘姫を偲び、風の神
(志那斗辨命・シナトベノミコト)を祀ったのが起源であり、後に、景行天皇が日本武尊を、このあたりを支配していた上海上国造(かみつうなかみのくにのみやっこ)の忍立化多
比命(おしたてけたひのみこと)が天兒屋根命、塞三柱神、大雀命を合祀したらしい。*志那斗辨命は、日本書紀に出てくる風の神である。
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ご神紋」は、「五七の桐」だろう。いたるところに配されていた。静かで趣のある神社だ。北側に神門があるが、これがまた立派な門だった。
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さすが式内社だ。