2017-04-09

埼玉の久伊豆神社




本日参拝する「久伊豆神社(ひさいずじんじゃ)」について。少し書いておきたい。上記地図上の緑のマークが「久伊豆神社」である。埼玉県の元荒川流域を中心に60社近く鎮座している。そして、元荒川流域以外にはほぼ見られないという特徴がある。 埼玉県加須市騎西に鎮座する式内社「玉敷神社」が、「久伊豆神社」の総本社とされており、かつて「久伊豆明神」と称していたようなので、まずはそこを参拝する。 武蔵七党(むさししちとう)と呼ばれる平安時代後期から室町時代にかけて、武蔵国を中心として勢力を伸ばしていた武士団があり、その中の野与党と私市党の支配範囲と「久伊豆神社」の分布図が重なることから、彼らが崇拝を深めたものと思われる。 上記地図を見て、紫いろのマークが荒川沿いの氷川信仰の「氷川神社」。水色のマークが利根川流域の香取信仰の「香取神社」。 ほぼ境界を侵すことなく祀られているところが面白い。そして久伊豆神社の北には、オレンジのマークである「鷲神社」分布も見て取れます。(☆・・雷伝神社)

玉敷神社

埼玉県加須市騎西にある武蔵国式内社「玉敷神社」に参拝。こちらは、元荒川沿いに60近くある久伊豆神社(この地域にしかない)の本社と言われています。そのため、江戸時代まで、「久伊豆大明神」と称されていました。
ご祭神は、大己貴命。(配祀)天照大御神 豊受大神 伊弉諾尊 伊弉冉尊 軻遇突智命。


ご神紋は「三つ巴」紋。
境内左手に茅葺の神楽殿を持つ。

 本殿は、流造でした。


久伊豆神社(岩槻)


岩槻にある久伊豆神社を参拝。
創建は古く、約1,400年前欽明天皇の時代に土師氏が出雲から久伊豆明神(大己貴命)の分霊を勧進し岩槻に社殿を建立したのにはじまるとされている。1457年(長禄元年)、太田道灌が岩槻城を築城した際、当社を岩槻城の鎮守とした。


雨の中、静かな参道。桜の木も落ち着いた雰囲気を醸し出す。



3年前(H26)に改修された拝殿。ご神紋は「三つ巴」紋のようです。
本殿は、三間社流造。

枯山水の神苑


久伊豆神社(越谷)




越谷の久伊豆神社を参拝。
越谷の総鎮守とされている。旧社格は郷社。祭神は大己貴命(大国主)である。
朱色の拝殿

ご神紋は「立葵」紋です。



本殿は徳川家の崇敬によるため「権現造り」です。
本殿の右奥には「旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿」があります。南洋神社(なんようじんじゃ)は、パラオ共和国コロール島に鎮座していた神社で、戦時中でパラオが日本の統治下にあった時代、官幣大社として創建された。敷地は9万6248坪もある壮大なものであったが、終戦時に廃社となっています。当時の埼玉県知事が遺骨収集団団長としてパラオを訪問して交流が深かった事から、当社に建立する事が決まり、「伊勢神宮」の指導の元、平成十六年(2004)に建立されたそうです。
帰りに参道の右手にあった神池によりました。水神社が池の中にありました。
写真右奥、国学者・平田篤胤の仮寓跡とされる松声庵もこの一角に置かれています。
写真左奥に見えるのが藤棚です。埼玉県の天然記念物に指定されているそうです。

2017-04-02

平塚神社(北区:上中里)

ご祭神は、源義家、源義綱、源義光です。

奈良時代までの当地は荒墓郷と呼ばれており、「平塚」の地名の由来とされる“塚”は、神社社殿裏にあり、北区によって「甲冑塚古墳」として登録されています。
平安後期の後三年の役の帰路に、源義家(八幡太郎)、義光(賀茂次郎)、義綱(新羅三郎)の三兄弟がこの館に逗留し手厚いもてなしを受けた。義家は感謝の験として鎧一領と十一面観音像を近義に下賜し、後に、この鎧を城の守り本尊として塚を築き埋めたのが塚の初めとされ、「鎧塚」「甲冑塚」と呼ばれた他、塚が高くなく平たかったことから「平塚」とよばれ、これが当地郷の地名のおこりとされています。
神紋は、「日の丸扇」紋。