今日の締めくくりは、熊野にある「花の窟神社」。尾鷲・熊野に入ると突然のスコール。さすが日本で一番雨量が多いと言われているだけあります。太平洋が間近にあるのに、ここらあたりは山が険しく不思議な感覚です。やっと海岸へたどり着いて、土砂降りの中「花の窟神社」を参拝。
「花の窟神社」の祭神は、伊弉冊尊と軻遇突智尊。伊弉冊尊は軻遇突智尊(軻遇突智尊は火の神である)の出産時に陰部を焼かれて死に、「紀伊国の熊野の有馬村」に埋葬され、以来近隣の住人たちは、季節の花を供えて伊弉冊尊を祭ったと記されている。当社では、それが当地であると伝え、社名も「花を供えて祀った岩屋」ということによるものである。社殿はなく、熊野灘に面した巨岩が御神体です。
日本最古の神社といわれており、ご神体の巨岩(というより岸壁)は幅60m高さ70mもあるということです。
2007年単身赴任先宮崎で土日の楽しみとして巡った「神社」の奥深さに惹かれ、それ以来神社探訪を続けています。神社の位置・ご祭神・神紋・鳥居・本殿を中心に気ままに書きなぐっています。ご訪問ありがとうございます。
2012-08-05
2012-07-28
小網神社
日本橋にある小網神社を参拝。
第二次世界大戦の際、戦地へ赴くことになった氏子の出征兵士に対し行った出征奉告祭に参列し、当神社の御守を受けた兵士が全員生還されました。また、昭和20年3月20日、東京下町地区に未曾有の災害をもたらした東京大空襲の際は、社殿を含む境内建物は奇跡的に戦災を免れています。
これにより、「強運厄除けの神様」として崇められています。ご祭神は「倉敷魂神(ウガノミタマ)」。
下町の一角にひっそりとありました。
日本橋地区では唯一現存する戦前の神社建築で中央区文化財に指定されています。
2012-06-30
三芳野神社
「とうりゃんせ」の発祥の神社「三芳野神社」を参拝。大宮の氷川神社を勧請したとも、京都の北野神社を勧請したともいわれているが定かではない。後者から「とうりゃんせ」の天神様となっているのだろう。川越城築城により天神曲輪に位置することになり「お城の天神さま」と呼ばれた。城内にあることから一般の参詣ができなくなったのだが、信仰が篤いことから時間を区切って参詣することが認められた。しかし、この天神さまにお参りするには川越城の南大手門より入り、田郭門を通り、富士見櫓を左手に見、さらに天神門をくぐり、東に向かう小道を進み、三芳野神社に直進する道をとおってお参りしなければならなかった。また、一般の参詣客に紛れて密偵が城内に入り込むことをさけるため、帰りの参詣客は警護の者によって厳しく調べられた。そのことから「行きはよいよい、帰りは怖い……」と唄われるようになり、それが伝わっていったものと思われる。 主祭神は、素盞男尊・奇稲田姫命である。
神紋は「三つ巴」のようです。本殿の屋根に紋が見えます。本殿は権現造りですね。
社紋は「大聖寺梅鉢紋」のようです。天神様にごだわっているのでしょう。
川越氷川神社
今日の目的地「川越氷川神社」を参拝。大鳥居の扁額は、勝海舟による。 もちろん、主祭神は、素戔嗚尊・奇稲田姫命・大巳貴命・脚摩乳命・手摩乳命。 欽明天皇二(540)年九月十五日鎮座、武蔵国造が大宮氷川神社より分祀、奉斎したという。のち室町時代の長禄元(1457)年、川越城の築城にあたった太田道灌は篤く当社を崇敬し川越城の守護神とした。小田原北条氏滅亡後に関東を支配した徳川家康は重臣を川越城主として江戸北方の守りにつかせ、以後代々の城主が川越総鎮守として崇敬してきたという。
入母屋造銅板葺向拝付の拝殿は均整のとれて美しい。
本殿は、写真をちゃんと撮れる場所がありませんでした。 神紋は、「八雲」
そして境内末社に何故か「柿本人麻呂神社」が。子孫である綾部家が戦国時代にこちらに移り住んだ 時に勧請されたそうです。
2012-06-17
島穴神社
ゴルフコンペの前に神社を2つ参拝。まずは「島穴神社」。延喜式内社である。 ご祭神は、風の神といわれている「志那都比古尊」および「倭比売尊」である。 紀記神話によれば、景行天皇40年、日本武尊の東征の際に走水の海で暴風雨に遭い、妃の弟橘姫の犠牲によって上総に上陸することができた。社伝では、そのとき弟橘姫が大和国の龍田大社の神に、無事に上総まで航行させてくれるのなら風鎮めの神を祀ると祈ったので、日本武尊は弟橘姫命の遺志に従いこの地に志那都比古尊を祀ったと伝える。日本武尊の歿後、日本武尊の父の景行天皇は日本武尊東征の縁の地を歴訪し、当社に日本武尊命・倭比売尊を合祀した。
すぐ近くの姉埼神社も同じ由緒を持っており、当社の御祭神と姉埼神社の御祭神・支那斗弁命〔しなのとべのみこと〕は夫婦神とされる。
神紋は「五七の桐」のようです。千葉湾岸の由緒ある神社の多くは「五七の桐」紋みたいです。
本殿は流造です。
境内には写真の天神社を始め多くの末社が祀られておりました。
朝まだ早かったので灯籠には灯がついていました。
飽富神社(あきとみ)
2012-06-01
御田八幡宮
御田八幡宮を参拝。延喜式内社 武蔵国荏原郡 稗田神社(ひえだじんじゃの論社とされている。誉田別尊命(ほんだわけのみこと、八幡神)を主祭神とし、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、武内宿禰命 (たけのうちすくねのみこと)を配祀とする。
わかりにくいですが「権現造り」のようです。
右手には「天神社」がありました。現在はかなり手狭な境内のようです。
2012-05-26
鷲神社(稲敷)
神崎<こうざき>神社(千葉)
2012-05-12
愛宕神社(茨城:行方市)
ゴルフで近くまで来たので探しました。茨城行方市にある「愛宕神社」です。鳥居と社殿の間の谷地に、「天龍の御手洗」といわれる清水があります。『常陸国風土記』行方郡に見える、「椎井」に比定されています。 継体天皇の時代、箭括氏の麻多智という人が郡役所の西側の谷を開墾したとき、体は蛇で頭にツノのある「夜刀の神」が群れをなしてやってきて、田をつくることを妨害した。そのため、麻多智は怒り、甲冑で身を固め、矛を手にとって、打ち殺して追い払った。そして、山の入り口に境界となる標の杖を立てて神の土地と人の土地を分け、自身は夜刀の神の祭祀者となって、はじめて社をつくって祀った。 また、孝徳天皇の時代、壬生連麿が谷にあった池に堤を築いていたとき、やはり夜刀の神が群がりきて、椎の木にのぼって居座った。そこで、麿は大声で怒鳴り、「この池を修復させるのも、根本は人民の生活をよくするためなのだ。大君の教化に従おうとしないのは、いったいどこの神なのか」といい、使役の農民たちに、「目に見えるものは魚でも虫でも、恐れたりせずにことごとく打ち殺せ!」と命じた。すると、夜刀の神は恐れ、逃げ去っていった。 この池が、椎井の池と名づけられた、といいます。 小さな麻多智の像が、池のほとりにありました。
境内に、「夜刀神」の碑があります。
社殿は、今にも崩れ落ちそうでした。
2012-05-03
阿彌神社
今日は、ゴルフの予定でしたが、あいにくの大雨で中止に。途中まで車で向かっていたので神社参拝に変更。 式内社「阿彌神社」は、論社が二社ある。どちらも参拝してきた。まずは、阿見町竹来にある「阿彌神社」。
ご祭神は、健御雷之男命。もとは、普都大神=經津主命と言われている。
鬱蒼とした林の中に境内がある。右手に一つだけ立派な境内社があった。 神紋は「三つ巴」のようです。
本殿は三間社流造です。
もう一社は、阿見町阿見にある「阿彌神社」。こちらのご祭神は、豊城入彦命・経津主命。 由緒によると、崇神天皇十八年、豊城入彦命、東国 に荏み曽て此地に到り昔建御雷経津主二大武神平国の功を憶い、其の上 天地なるを偲びて慨然としていわく「皇 祖の天下を経営せらるるや、阿彌普都 実に能く天業を輔弼せり両神功成り て天に還りしは、蓋し是の地なるか」とこ れより阿彌郷と名づけ、この地に命を 祭る。とあります。
現在は、住宅街の一角に鎮座している。
参道の途中に立派な鳥居がありました。その奥に拝殿。
本殿は、一間社流造でした。
蛟蝄(みづち:こうもう)神社(奥の宮)
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