参道の杉並木が暫く続く。圧巻。
樹齢300年樹高45mもの杉があるそうだ。
本宮のご祭神は、軻具突命 息氣長足姫命 豊宇氣姫命 高皇靈命 神皇靈命。
「物部文書」によると、唐松神社は、本来「韓服宮」という名前。三韓征伐後、つまり韓を征服した神功皇后の創建という意味。新羅征討に参加した、物部氏・膽咋連(いくいのむらじ)が、皇后の御腹帯を拝受し、当地に来て、月出野に、当社を創建した。
こちらの宮司は、なんと代々「物部氏」なのだそうだ。
朱の二の鳥居「台輪つき両部鳥居」をくぐると拝殿は、階段下に見える。下りの宮である。
神紋は「三つ柏」。
「下りの宮」は珍しい。本来の祭神である「饒速日命」が関係しているのは間違いない。あまりにも霊力が強いか、静かに鎮まってもらいた神だったのではないかと推察する。
そして当社は謎の「唐松山天日宮」をもつ。
天日宮のご祭神は、初代日ノ本の王というべき「饒速日命(ニギハヤヒノミコト)」。物部氏祖神である饒速日命は、鳥見山(鳥海山)の「潮の処」に天降った。その後、逆合川の地・日殿山(唐松岳)に「日の宮」を造営し、大神祖神・天御祖神・地御祖神を祀ったという。
3月に、同じく饒速日命の天降りし「磐船神社」を参拝したばかり。これは、嬉しい。
本殿は、池の中に作られた「ストーンサークル」の上に建つ。
なんとも不思議な光景。
しばし呆然と社殿を眺める。
隣の池にも玉鉾神の石碑が建っていた。
唐松神社の秋田物部家の家系図では、膽咋連(いくいのむらじ)を鼻祖とする。そして四代を省略して物部尾輿が記されている。尾輿の後継者は物部守屋だが、蘇我氏との戦いで有名な守屋の名はなぜか表に出た形で記載されず、守屋の子、つまり尾輿には孫の那加世(なかよ)が秋田物部家の祖・初代として扱われている。蘇我氏に敗れた物部氏の東北へのがれ、こうした饒速日命の伝説が生きずいていると考えると実に興味深い。やはり神社探訪はやめられない。
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