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2010-10-31

戸隠神社 奥社・九頭龍社

「戸隠神社」参拝。まずは奥社・九頭龍社から。
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さすがに、最近のパワースポットブームとメディア効果で、にわか神社巡りの観光客が多い。参道は2キロ。手前は広葉樹、中間点に「隋神門」があり、
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そこからが杉並木だ。感無量!!
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この地には、奥社ともうひとつ九頭龍社がある。本来は水神である九頭龍がこの社の根源神であるが、後世に奥社の御祭神「天手力男命」に追いやられた恰好だ。
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奥社は、岩窟に半分埋まっていました。
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昨日同様、この日も霧雨で、戸隠山をみることは叶いませんでした。
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しかし、往復4キロの紅葉狩りは格別です。神社参拝とゴルフのおかげで私は平気でしたが、かみさんは運動不足にて、バテバテでした。

戸隠神社 中社・宝光社

奥社から少し山を下り、中社へ。中社は、天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)を祀る。
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拝殿へ向かう階段の紅葉が色づいて美しい。
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ここには、樹齢800年を超える三本杉がある。うーん見事だ。
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社殿は唐破風入母屋造り。
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そして、社紋は「鎌卍紋」。諏訪大社の神器といわれる「薙鎌」といい、こちらの鎌卍といい、信濃は「鎌」に縁があるのだろうか?

さて最後に、火の御子社には、寄れなかったが「宝光社」は参拝。ご祭神は、思兼命の御子である天表春命(あめのうわはるのみこと)。天孫降臨の際、護衛として降臨した神様である。
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杉並木の階段をひたすら登ってゆく。かみさんは、階段をパスして左横にある女坂から社殿をめざす。
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社殿は、間口柱間五間、奥行柱間七間。正面に破風付の一軒の向拝を付けた妻入り入母屋造。かなり大きな社殿であった。

中社近くで、名物戸隠そばを頂きました。お店は「二葉屋」さん。一日限定20食の「生粉打ち(十割そば)そば」を頂きました。まずは、塩だけでいただきます。そしてつゆで。さすがに本場。おいしかったです。

2010-10-30

諏訪大社 上社

信濃一之宮「諏訪大社」は、四つの宮がある。諏訪湖の南側の上社に前宮と本宮、北側の下社に春宮と秋宮。社殿の四隅に御柱(おんばしら)と呼ぶ木の柱が立っているほか社殿の配置にも独特の形を備えている。ご祭神は、大国主命の子、建御名方命(たけみなかたのみこと)を上社に、そしてその妻の八坂刀売命(やさかとめのみこと)を下社にと言われています。諏訪大社には、大神神社と同様に本殿が無い。上社は、「守屋山」を御神体とし、下社は、御神木を御神体としているのだ。まずは、前宮を参拝。
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前宮は諏訪明神の信仰の原点といわれている。もともと、諏訪大社では木や石などに降りる精霊として、ミシャクジ神を祀っており、 奉祀する神職の最高位を大祝と呼び、上社の大祝「諏訪氏」は祭神の子孫として、下社の大祝「金刺氏」は皇族の子孫としていた。こんもりとした森にたたずむ拝殿は、いかにも厳かであった。
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写真は、一の御柱。社殿を4つの柱が囲むようにして立っている。
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ご神紋は「諏訪梶紋」。上社は写真のように、根が4本である。


次に、本宮を参拝。
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南側の鳥居から境内へ。そこには、布橋と呼ばれる、門から幣拝殿までの間をつなぐ、37間の長細い切妻の建物がある。022
拝殿は、何故か守屋山ではなく、前宮を背にしている。
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ちょうど、なにかのお祓い中であった。
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御柱を写真に収め、社務所でご朱印を頂くときに、御柱を伐り出す御用林のモミの木の題字にひきつけられ、ついつい買ってしまったのが下の写真です。
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感激!!

諏訪大社 下社

上社を後にして、足長神社・八剣神社と参拝し、下社へ。まずは、秋宮。
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鳥居をくぐり最初に見えるはずの、大きな注連縄をもつ神楽殿は修復中で見られず。残念。
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破風のある二階建て構造の珍しい拝殿にて参拝。雨は依然として激しく降っている。
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神紋「諏訪梶紋」はやはり上社と違い根が5本あることを確かめる。
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ここでは、拝殿左奥にある「三の御柱」を紹介しておこう。



さて、最後は春宮。
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こちらでは、注連縄は小さめだが正面の神楽殿を見ることができた。
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そして、秋宮と同じつくりの幣拝殿。
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最後に御朱印をもらうと、4宮全てをまわられたのでということで「御神供」の落雁を頂いた。
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ちゃんと「諏訪梶紋」があるのに感激しました。春宮でもらったので、根は5本でした。

2010-10-24

千葉の神社の分布?

以前参拝した「麻賀多神社」。この麻賀多という言葉に何か引っかかるものがあり、調べている。
そもそも千葉の南は、安房の国で安房一之宮である「安房神社」「洲崎神社」のご祭神は、忌部氏の祖。安房は、四国(阿波)の忌部氏が海を渡って住み着いたと言われており、その名がついた。忌部氏はここで麻を栽培する。このとき良質の麻が成長したところを総(ふさ:麻の古語)の国といい、阿波斎部が住んだところを安房と名づけたといわれている。総の国は都に近い方が上総、遠い方が下総と呼ばれた。だから千葉は、安房国の「房」と上総国、下総国の「総」を組み合わせて「房総」と呼ばれている。
さて、千葉にしかない「麻賀多神社」。忌部氏は、出雲の玉造で「勾玉」を造る集団でもありました。千葉の印旛沼(忌部からきているだろう)の南に「麻賀多神社」は数多く存在する。そしてこの地にしかない。麻賀多は、勾玉からきているのであろうか。勾玉に関係した忌部氏の集団がこの地に住み着いたのではないだろうか?それとも麻を多く奉げたという意味なのか?いずれのしてもおもしろい。

しかしそれだけでなく千葉には神社のおもしろい分布があった。

より大きな地図で 千葉~鳥見神社・宗像神社・麻賀多神社 を表示

上の地図。南に拡がる赤マークが「麻賀多神社」(駒形(小麻賀多))含む。中央の黄マークが「宗像神社」。北の青マークが「鳥見神社」。見事に地域を分けて分布している。「鳥見」は、ニギハヤヒを祀る物部氏の領域。「宗像」は海洋族。九州の遠賀川流域を地盤としていた物部と宗像がはるか千葉の地に腰を下ろしたものと思われる。東の香取・鹿島の地も物部の領域だったことを考えると千葉は、古くは出雲系の支配地であったことがわかる。これから色々調べてみたい。

来週は、諏訪・戸隠に参拝にいきます。楽しみです。