2007年単身赴任先宮崎で土日の楽しみとして巡った「神社」の奥深さに惹かれ、それ以来神社探訪を続けています。神社の位置・ご祭神・神紋・鳥居・本殿を中心に気ままに書きなぐっています。ご訪問ありがとうございます。
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2010-05-23
千葉 寒川神社
千葉市 「寒川神社」に参拝。千葉郡 ニ座 式内社かとも言われている神社だ。(「寒川神社」は船橋市の「二宮神社」とも言われている)ご祭神は、寒川比古命 寒川比賣命。天照大御神を配祀する。
ご神紋は、二つ。裏紋は千葉氏の家紋「月星紋」そして、写真にある珍し紋だ。「八稜鏡ハチリョウキョウ紋」。八稜鏡とは、八咫鏡を図案化したもの。
千木・鰹木をみると、現在では天照大御神を第一としているようだ。
千木・・・屋根の両端で交叉させた木。通常、祭神が男神の社は千木を外削ぎ(先端を地面に対して垂直に削る)に、女神の社は内削ぎ(水平に削る)にしている。
鰹木・・・屋根の上に棟に直角になるように何本か平行して並べた木である。鰹木の数は、奇数は陽数・偶数は陰数とされ、それぞれ男神・女神の見分けができる。
千葉 蘇我比咩神社
式内社 千葉郡 ニ座の一つ「蘇我比咩神社」を参拝。
非常に小さな神社であった。ご祭神は、蘇我比咩大神 。後に天照大神、応神天皇などを配祀。
<蘇我比咩神社御縁起>
今から壱阡五百年位前里人の守り神として祭られており、その後第十二代景行天皇の皇子であらせられた日本武尊命が東国地方の夷達を統一すべく、弟橘姫を始め多数の家来をつれて軍船に乗り千葉沖にさしかかったところ、風浪が強くなり船が沈没の危険にあった時、弟橘姫は竜神の怒りを静めんと我が身を海中に沈め、この時一緒に同道して来た五人の比咩等も共に海中に身を投じた。その内の一人蘇我大臣の娘はこの下の海辺に打ち上げられ、里人の手厚い看護により蘇生することが出来、都に帰ることが出来た。この里人の行為に深く感激し、第十五代応神天皇の特別の命により、蘇我氏がこの周辺の国造として仁政をつかさどった。代々蘇我氏は「神紋は「五七の桐」のようだ。東京湾そばにある千葉の式内社三社「蘇我比咩、姉埼、飫富」はみな「五七の桐」を神紋としているのは偶然ではないだろう。
拝殿はかなり小さなものであった。
非常に小さな神社であった。ご祭神は、蘇我比咩大神 。後に天照大神、応神天皇などを配祀。
<蘇我比咩神社御縁起>
今から壱阡五百年位前里人の守り神として祭られており、その後第十二代景行天皇の皇子であらせられた日本武尊命が東国地方の夷達を統一すべく、弟橘姫を始め多数の家来をつれて軍船に乗り千葉沖にさしかかったところ、風浪が強くなり船が沈没の危険にあった時、弟橘姫は竜神の怒りを静めんと我が身を海中に沈め、この時一緒に同道して来た五人の比咩等も共に海中に身を投じた。その内の一人蘇我大臣の娘はこの下の海辺に打ち上げられ、里人の手厚い看護により蘇生することが出来、都に帰ることが出来た。この里人の行為に深く感激し、第十五代応神天皇の特別の命により、蘇我氏がこの周辺の国造として仁政をつかさどった。代々蘇我氏は「神紋は「五七の桐」のようだ。東京湾そばにある千葉の式内社三社「蘇我比咩、姉埼、飫富」はみな「五七の桐」を神紋としているのは偶然ではないだろう。
拝殿はかなり小さなものであった。
2010-05-04
鶴岡八幡宮
相模国一之宮にして旧国幣中社「鶴岡八幡宮」を参拝。壮麗な神門(楼門)と拝殿に目を奪われた。朱、金、緑などに彩られた装飾が実に美しい。
そして至る所に数々の「三つ巴」紋。
さすが、源氏のお膝元です。
さて境内には、頼朝公をお祀りする「白旗神社」もありました。
クリック(拡大)してご覧ください。神紋は「笹竜胆」紋です。おかしいですね。清和源氏の嫡流が村上源氏の笹竜胆紋を使用したはずがないのですが、後世になってごちゃ混ぜになったのでしょうね。まあ、鎌倉市自体の紋章も「笹竜胆」なくらいですから、しょうがないでしょうか。そして、良く見てください手前の賽銭箱の紋「ニ引き両」紋です。これは、足利家の家紋です。当然かかわりがあったのでしょう。それとも八幡太郎義家がお上から「五七の桐」紋を賜り使用したと同時に「ニ引き両」紋も掲げていたという説があるので、ひょっとしたそちらから来ているのかもしれませんね。まあ深くは考えない様にしましょうか。
鎌倉宮
北方謙三の時代小説 南北朝シリーズを読んだ時から是非訪れたかった「鎌倉宮」を参拝。
ご祭神が「大塔宮(おおとうのみや) 護良親王(もりながしんのう)」だからです。
ご由緒を記載しておきます。
護良親王(もりながしんのう)は延慶(えんぎょう)元年(1308年)に後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の皇子としてご誕生になりました。6歳の時に京都の三千院(さんぜんいん)にお入りになりますが、11歳で比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)に入室し、尊雲法親王(そんうんほっしんのう)と呼ばれ、天台座主(てんだいざす)となられます。当時、鎌倉幕府の専横な政治に、父帝の後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は国家の荒廃を憂えられ、親王と共に元弘(げんこう)元年(1331年)6月、比叡山にて討幕の挙兵をする手筈でした。しかし、この計画は幕府の知るところとなり天皇は捕らえられ、隠岐(おき)に配流(はいる)となります。親王は還俗(げんぞく)して、名を護良(もりなが)と改め、天皇の代わりとなって楠木正成(くすのきまさしげ)らと、幾多の苦戦にも屈せず機知を持った戦で大群を吉野城や千早城に引きつけました。この間にも親王の討幕を促した令旨(りょうじ)に各地の武士が次々と挙兵し、中でも足利尊氏(あしかがたかうじ)、赤松則村(あかまつのりむら)らが六波羅探題(ろくはらたんだい)を落とし、また新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉に攻め込み、鎌倉幕府は北条一族と共に滅びます。後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は京都に還御(かんぎょ)され、親王はこの功により兵部卿(ひょうぶきょう)・征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となら
れます。しかし尊氏は征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)を欲し、諸国の武士へ自らが武家の棟梁であることを誇示した為、親王は尊氏による幕府擁立を危惧し、兵を集めます。ところが、逆に高氏の奸策(かんさく)に遭い捕らえられ、鎌倉 東光寺(とうこうじ)の土牢(つちろう)に幽閉されます。建武(けんむ)元年(1334年)の11月15日の事です。建武2年(1335年)7月23日 残党を集め鎌倉に攻め入った北条時行(ほうじょうときゆき)の軍に破れた尊氏の弟、足利直義(あしかがただよし)は逃れる際に、家臣 淵辺義博(ふちべのよしひろ)へ親王暗殺を命じました。義博の凶刃に対して、親王は9ヶ月をも幽閉された御身では戦う事も出きず、御年わずか28歳という若さでその苦闘の生涯を薨(こう)じられました。明治2年2月、明治天皇は建武中興に尽くされ、非業の最期を遂げられた護良親王(もりながしんのう)に対して、遥かに想いを馳せられ、親王の御遺志を高く称え、永久に伝えることを強く望まれました。親王終焉の地、東光寺跡に神社造営のご勅命を発せられて、御自ら宮号を「鎌倉宮(かまくらぐう)」と名づけられました。なお、明治6年4月16日、明治天皇は初めて鎌倉宮に行幸遊ばされました。お休みになられた行在所は現在、宝物殿・儀式殿となっております。
緑に包まれた静かな宮です。(といっても今日は人が多いのですが)
↑写真 左奥が幽閉されていた「土牢」
藤棚も綺麗でした。
ご祭神が「大塔宮(おおとうのみや) 護良親王(もりながしんのう)」だからです。
ご由緒を記載しておきます。
護良親王(もりながしんのう)は延慶(えんぎょう)元年(1308年)に後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の皇子としてご誕生になりました。6歳の時に京都の三千院(さんぜんいん)にお入りになりますが、11歳で比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)に入室し、尊雲法親王(そんうんほっしんのう)と呼ばれ、天台座主(てんだいざす)となられます。当時、鎌倉幕府の専横な政治に、父帝の後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は国家の荒廃を憂えられ、親王と共に元弘(げんこう)元年(1331年)6月、比叡山にて討幕の挙兵をする手筈でした。しかし、この計画は幕府の知るところとなり天皇は捕らえられ、隠岐(おき)に配流(はいる)となります。親王は還俗(げんぞく)して、名を護良(もりなが)と改め、天皇の代わりとなって楠木正成(くすのきまさしげ)らと、幾多の苦戦にも屈せず機知を持った戦で大群を吉野城や千早城に引きつけました。この間にも親王の討幕を促した令旨(りょうじ)に各地の武士が次々と挙兵し、中でも足利尊氏(あしかがたかうじ)、赤松則村(あかまつのりむら)らが六波羅探題(ろくはらたんだい)を落とし、また新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉に攻め込み、鎌倉幕府は北条一族と共に滅びます。後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は京都に還御(かんぎょ)され、親王はこの功により兵部卿(ひょうぶきょう)・征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となら
れます。しかし尊氏は征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)を欲し、諸国の武士へ自らが武家の棟梁であることを誇示した為、親王は尊氏による幕府擁立を危惧し、兵を集めます。ところが、逆に高氏の奸策(かんさく)に遭い捕らえられ、鎌倉 東光寺(とうこうじ)の土牢(つちろう)に幽閉されます。建武(けんむ)元年(1334年)の11月15日の事です。建武2年(1335年)7月23日 残党を集め鎌倉に攻め入った北条時行(ほうじょうときゆき)の軍に破れた尊氏の弟、足利直義(あしかがただよし)は逃れる際に、家臣 淵辺義博(ふちべのよしひろ)へ親王暗殺を命じました。義博の凶刃に対して、親王は9ヶ月をも幽閉された御身では戦う事も出きず、御年わずか28歳という若さでその苦闘の生涯を薨(こう)じられました。明治2年2月、明治天皇は建武中興に尽くされ、非業の最期を遂げられた護良親王(もりながしんのう)に対して、遥かに想いを馳せられ、親王の御遺志を高く称え、永久に伝えることを強く望まれました。親王終焉の地、東光寺跡に神社造営のご勅命を発せられて、御自ら宮号を「鎌倉宮(かまくらぐう)」と名づけられました。なお、明治6年4月16日、明治天皇は初めて鎌倉宮に行幸遊ばされました。お休みになられた行在所は現在、宝物殿・儀式殿となっております。
緑に包まれた静かな宮です。(といっても今日は人が多いのですが)
↑写真 左奥が幽閉されていた「土牢」
藤棚も綺麗でした。
2010-05-02
姉崎神社
ゴルフ帰りに、近くの「姉崎神社」を参拝。
延喜式式内社の一つ。(上総国には、4つしかない)日本武尊が東征の折、走水の海で暴風雨に遭い、后の弟橘姫がその身を海中に投じた事によって、無事上総国へ着くことができた。この弟橘姫を偲び、風の神
(志那斗辨命・シナトベノミコト)を祀ったのが起源であり、後に、景行天皇が日本武尊を、このあたりを支配していた上海上国造(かみつうなかみのくにのみやっこ)の忍立化多
比命(おしたてけたひのみこと)が天兒屋根命、塞三柱神、大雀命を合祀したらしい。*志那斗辨命は、日本書紀に出てくる風の神である。
ご神紋」は、「五七の桐」だろう。いたるところに配されていた。静かで趣のある神社だ。北側に神門があるが、これがまた立派な門だった。
さすが式内社だ。
延喜式式内社の一つ。(上総国には、4つしかない)日本武尊が東征の折、走水の海で暴風雨に遭い、后の弟橘姫がその身を海中に投じた事によって、無事上総国へ着くことができた。この弟橘姫を偲び、風の神
(志那斗辨命・シナトベノミコト)を祀ったのが起源であり、後に、景行天皇が日本武尊を、このあたりを支配していた上海上国造(かみつうなかみのくにのみやっこ)の忍立化多
比命(おしたてけたひのみこと)が天兒屋根命、塞三柱神、大雀命を合祀したらしい。*志那斗辨命は、日本書紀に出てくる風の神である。
ご神紋」は、「五七の桐」だろう。いたるところに配されていた。静かで趣のある神社だ。北側に神門があるが、これがまた立派な門だった。
さすが式内社だ。