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2008-10-29

霧島岑神社

Kirisimamine1 Kirisimamine2 小林市へ出かけた帰りに5分程、神社にお参りに。

霧島六社権現の一つ「霧島岑神社」へ。御祭神は(瓊瓊杵尊、木花咲耶姫、彦火火出見尊、豊玉姫、鵜草葺不合尊、玉依姫)。参道の入り口に仁王像が立つ。そこから、長い階段を登ったところに境内がある。静かな境内へ入り口の、高く高く聳える杉は印象的だ。

現在の岑神社は、夷守(ひなもり)神社合併されたもので、霧島六社権現とは、霧島神宮・東霧島神社・狭野神社・霧島東神社・霧島岑神社の5つということになる。たぶん、高千穂峰そのものがご神体であったのだろう。

また、仁王像の仁王とは、金剛力士のことである。それは「金剛杵(こんごうしょ)(古代インドの武器を元にした密教の法具。あらゆる煩悩を打ち砕く象徴)を持つもの」の意味であります。2体は、金剛杵を持ち口を開いた阿形像(あぎょうぞう)と、口を閉じ宝棒を持つ吽形像(うんぎょうぞう)です。「阿吽の呼吸」とよく言われますが、阿は「あ」で言葉の始まり、吽の「ん」で言葉の最後で、の始まりと究極とを象徴しているそうです。勉強にになります。

2008-09-21

雨の高千穂

土曜の夜から「かみさん」が宮崎へ遊びに来ている。この日は、時間が遅かったので夕食は、お好み焼きで済ませ、いつも仲良くさせてもらっている、BAR「NIGO」で12時近くまでお酒&カラオケで楽しむ。

今日は、高千穂へ向かう。朝は大変良い天気であったが高千穂へ近づくあたりから雲行きが怪しい。まずは、天岩戸神社へ。その頃には、なんとどしゃぶり。



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もちろん、天照大神を祀る神社で、参拝者は、社殿で 大鏡にお祈りするのだが、実は御神体は、拝殿の後方の対岸にある洞窟(天岩戸)  で、実は天岩戸を拝んでいるわけだ。そこから前回は行けなかった天の安原へいくが、濡れ鼠状態となる。

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上の写真の左側に「仰慕窟」(ぎょうぼがいわや)という間口30m・奥行き25m
の大きな洞窟があり中に鳥居と社があるのだが、恐れ多くて写真は撮らなかった。

天岩戸神社をあとにして「真名井の滝」のある高千穂峡へ。今日は意外と観光客が多いが残念ながら突然の大雨でボートは中止。写真だけはきっちりと収めた。

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最後に、高千穂神社へ。

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この頃から、雨も上がり日差しが戻り始めていた。高千穂神社の御祭神は多く

高千穂皇神 天津彦火瓊々杵尊・木花開耶姫命、彦火火出見尊・豊玉姫命、鵜葺草葺不合尊・玉依姫命

十社大明神 三毛入野命・鵜目姫命、大郎命・二郎命・三郎命・畝見命・照野命・大戸命・霊社命・浅良部命


となっている。

境内には、第十一代垂仁天皇の勅命により我国で始めて伊勢神宮と当高千穂宮が創建せられた際用いられた鎮石が置かれていた。

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「道のえき」でやっと遅い昼食。「ちゃんどん」というチャンポンの具のうどんを食べる。延岡駅で食べたことがある。この地方の名物だろうか?あとで調べてみよう。そして いよいよ阿蘇へ。  つづく・・・

 

2008-08-17

大御神社

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日向の海岸沿いにある「大御神社」を訪ねる。007

皇祖天照大御神を御祭神とする古社で、創建の年月は詳らかではないが、当社に伝わる「神明記」その他の古文書によれば、往古・皇大御神・日向の国高千穂に皇孫瓊々杵尊を天降し給うた節、尊は当地を御通過遊ばされ、千畳敷の磐石にて、これより絶景の大海原を眺望され、皇祖天照大御神を奉祀して平安を祈念されてと伝えられ、後世、此の御殿の霊石の在りし所に一宇を建て、皇大御神を勧請し村中の鎮守と崇敬し奉ると言う。

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上の写真がその「神座」だ。この地は、あの君が代に謳われる<さざれ石>が見られる。

【さざれ石】 ( 細石 )
集まった小さな石の隙間が炭酸カルシュウムや水酸化鉄等で埋められ、小石がコンクリート状に凝結して固化したものを総称してさざれ石と呼んでいます。


そいうえば、北京オリンピック、中国の地で金メダルの度に、何度も「君が代」が演奏されるのが、小気味いい。

立磐神社と日本海軍発祥の地

宮崎に美々津という地がある。神武東征の時に、カムイワレヒコ(神武天皇)ら天孫族らが、この港(美々津の渡し)から大和へ向けて旅立ったとされる場所だ。

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そこに「立磐神社」はある。神武天皇と住吉三神を祀っている神社です。

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古くて小さな社であった。すぐそばに耳川が流れている。美々津の町並みは、昔の廻船問屋などが連なる趣のある場所であった。そしてこの神社の側には、日本海軍発祥の地の石碑が見事に立っていた。

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天気が悪く、文字が見えにくいが「日本海軍発祥之地」と彫られている。

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日本海軍は、天皇が統治された海軍である。このことから国が、神武天皇親率の水軍が初めて編成され、進発した美々津の地を「日本海軍発祥之地」と定め、紀元二千六百年記念事業の一環として建立された。碑文の文字は、時の内閣総理大臣海軍大将米井光政の揮毫により、碑面に刻記されたものらしい。この碑は、大東亜戦争の終戦直後進駐米軍によって碑文が破壊されたが、昭和44年、地元有志の強い要望により、防衛庁(海上自衛隊)などの協力を得て、現在の通り復元されたとのこと。宮崎に着たからには、とにかくここに来たかった。

都農神社

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日向国一ノ宮たる「都農神社」へ。大きな杉林の参道は、荘厳で圧巻。拝殿は、建て替えられたのだろうかなり新しかった。

都農神社は都萬・霧島・江田と並ぶ、日向式内四座の一社だ。都農神社由緒によれば神武天皇御東遷の際に、宮崎の宮を御進発になり、途中、都農において祭壇を設け、国土平安海上平穏武運長久神助を祈念したという。この鎮祭されたのを創祀と伝えている。しかし、ご祭神は、かの大巳貴命(おおなむちのみこと・大国主命)。そして摂社には、素盞嗚社(素盞嗚命) を祭る。上記のような由緒があり、しかも日向天孫族の中心地でありながら、何故に出雲系の大神が祭られているのか、前々から疑問だ。当然ながら、由緒にもこのことは何も触れられていない????

2008-06-14

太宰府天満宮 参拝

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太宰府天満宮を久しぶりに参拝した。高校受験前に母と参拝しにきて以来30年ぶりだ。太宰府天満宮は、言わずと知れた学問の神様「菅原道真」を御祭神として祭っている。がしかし知らないことが多くあった。今日の参拝とご案内で驚くべきことを多く知った。道真の遺骸を牛で曳かせ、牛が動かなくなった場所を墓にせよとの遺志により、現在の場所が「殿」ではなく「廟」として存在し、その地下に道真公が眠っているということ。すなわち参拝と同時に墓参りをしているということ。故にもとは神社ではなく安楽寺というお寺であったということだ。1947年に今の太宰府天満宮となったらしい。

さて、この日は宮司(道真公の子孫にて39代目 西高辻宮司)の御自宅<延寿王院>も見学させてもらい、幕末に7卿落ちで来られ、(大宰府には5卿)3年間 三条実美が住まわれ、高杉晋作と対面した(勿論、龍馬や西郷も)畳に座ることができたことは感慨深いものがあった。久しぶりに「梅が枝餅」もいただいたが、おいしかった。

2008-05-08

鹿野田神社

PhotoPhoto_2 今日、西都市へでかけたので「鹿野田神社」という所へ立ち寄りお参りとお祈りをした。

何もない田んぼ只中に鳥居があった。神社自体は主要道路からさらに逸れて田んぼの中を伸びる参道を200mほど進んだ奥にあり、海から12キロも離れた山間にある。


しかし、この神社にある井戸は、塩水なのだ。「鹿野田神社」の御祭神は、ヒコホホデミノミコトすなわち山幸彦だ。神話に登場する「潮満玉(しおみつたま)・潮涸玉(しおひるたま)」が、ご神体としてまつられている。

そして井戸の名前も「潮満玉の泉」という。山幸彦と結婚した海神の娘・豊玉姫が会うために、陸と海とを行き来した道と伝えられている。すこしスクって水を舐めてみた。本当だ。塩辛い。地元では、この社をもっぱら「潮(うしお)神社」と呼ぶ。井戸の水面は、潮の満ち引きに合わせて上下するのだという。不思議だ。

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2008-05-07

潮嶽神社

Photo_2 今日、外回りの際 途中で「潮嶽神社」へ5分ほど立ち寄りお参りとお祈りをした。

「潮嶽神社」は、北郷町にある祭神は、ホスセリノミコトすなわち海幸彦である。海幸彦は、ご存知のように山幸彦に負け、追われた神であり、他に海幸彦を祭る神社は存在しない。しかも、こんな山深い地に・・・。

神社の背後は飫肥杉の産地で、神話の里がどこもそうであるように、ここにも主祭神・海幸彦にまつわる地名が多い。

潮嶽は、弟の山幸彦と釣り針のことで争ったとき、磐(いわ)船で満潮に乗り、越潮(こしおの)山に上陸、ここを潮嶽と称するようになったという。また、船から下りたところが「賢所」。ここは、禁足地となっており、ここには磐船が埋められていると伝える。さらに海幸彦が水鏡を利用し、みそぎをした池が「神池」、祭りのときアマテラスに酒食を出した場所を「饗(きょう)塚」という。
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海幸彦が国内を治めた後、この地で亡くなり、潮嶽川上の陵に葬られたと言われ、潮塚があてられている。ちなみに「宿野」は、信仰を集めた同社の宿坊が立ち並んでいたことによるという。

土地では「海幸・山幸」の神話にちなんで、縫い針を他人には貸さない習俗がある。ホスセリは隼人族の祖とされ、日本書紀によれば隼人の声は、犬の遠ぼえに似ているとも書かれている。子供の初参りには、紅で額に「犬」の字を書き、病気封じをして強く育つよう祈願する。これも海幸彦にかかわるものとされている。おもしろい。

2008-04-27

小戸神社と江田神社

神事の前に唱える祓詞(はらいごと)は、

掛けまくも畏き伊弉諾大神
筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に
御禊祓へ給ひし時に
生り坐せる祓戸の大神等 
諸々の禍事罪穢有らむをば
祓へ給ひ清め給へと白す事を聞食せと   
恐み恐みも白す
・・・

この「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」にまつわる二つの神社を今日は訪ねた。宮崎のメイン通りは、橘通りと呼ばれているが、当然ここからとられている。

001_2 まずは、大淀川のそばにある「小戸神社」。ご祭神はもちろん伊弉諾尊。「小戸」とは、今の大塚地区と下北方地区との間、柏田より広がる下流域の三角州、すなわち旧宮崎市街地全域を指した古い地名である。本来は、大淀川の河口にあったようで、港を守る神として大切にされたそうだ。現在は、何度も場所を移し、少し上流に位置している。

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神門をくぐり目の前には、ご神木の見事な「おかだまの木」が。おかだまは、元々は「招魂(おぎたま)」が訛ったものらしい。拝殿も厳かだ。

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神社の方に、ご由緒書きをもらい。境内を後にして、阿波岐原にある「江田神社」にむかった。こちらは、伊邪那岐尊、伊邪那美尊の両神を祀っている。   

008_2妻である伊邪那美を追って黄泉の国へ行った伊邪那岐が、黄泉から戻った時に、その汚れを祓うために阿波岐原で「禊祓(みそぎはらえ)」をした、と古事記にあることから、阿波岐原はみそぎ発祥の地であるとされ、近くにはみそぎの池(御池)がある。そばには、フェニックスゴルフクラブやシーガイアリーゾートホテルがある。昨日はそこで、部下の結婚式に参列した。由緒ある場所での結婚式とは羨ましい限りだ。

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「延喜式」では日向国式内四座の一つとなっている。拝殿の右横から御池へ向かう途中に「みそぎ御殿」というのがあった。そこから少し散策してみそぎ池(御池)へ向かう。

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今日も 日向神話を訪ねる半日となってしまった。

2008-04-20

霧島東神社

Dscf1302霧島六社権現の内の一社。「霧島東神社」は、高千穂峰の東麓、標高500mの位置にあり、霧島の火口湖の中で最も大きい御池を見下ろす大自然の山中に鎮座している。ご祭神は、伊弉諾尊 伊弉冉尊。噴火を繰り返す自然の厳しさの象徴として山岳信仰の場として日本有数の霊場であり、霧島で修 行をする修験者たちの拠点となったところ。性空上人が開いた。霧島東神社の参道は、高千穂峰への登山道の始まりでもある。朱の鳥居の奥に鬱蒼とした木立が続く。少し登ってゆくと参道沿いに突然、結界で囲まれた祭祀場が。木々に隠れよく見ないが、あきらかに御池に向かっている。ここではいったいどのような祭事が行われるのだろう。

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さらに石段を上がったところに霧島東神社の社殿がある。その山門の前には一直線に空に向かって伸びる2本の杉の木が鳥居のごとく注連縄を締めて鎮座していた。

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社殿までの道沿いには摂社・末社が並んでいる。その一番手前は、猿田彦命の社だ。
いかにも無造作に鏡が飾ってある。なかなかこんなに近くで神鏡を拝める機会はないのではないだろうか。そして奥に、赤と黒の重厚な社殿。

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日向神話を楽しむドライブであった。

皇子原神社

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神武天皇ご降誕の地と伝えられている皇子原(オウジバル)は、高原町一帯を見下ろす高台にある。狭野神社をさらに奥に登ってゆくのだ。皇子原神社には産場石(うべし)と呼ばれる石がまつられている。これは神武天皇がお生まれになった場所、あるいは産湯をつかわれた場所であると伝えられている。ここから、狭野の地が一望できる。近くの公園では、山桜が満開で美しかった。

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狭野神社

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高原町(タカハル)にある、神武天皇生誕の地「狭野」を訪ねた。そこには、霧島六社権現の一つ狭野神社がある。狭野神社は、神武天皇 (カムヤマトイワレヒコノミコト) 幼名、狭野尊(さのみこと) を祀るお社である。境内まで大きな杉の参道が続く。島津氏が植えた400年を超える大杉は、神の御座にふさわしい。

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Dscf1293_2 宮崎に来なければ、絶対に知らずにいた場所であろう。狭野は、山々の地とは思えぬ程の平地がある。梅原氏が書いたように、稲作が十分発達しそうな地だ。狭野は、神武天皇の父、ウガヤフキアエズノミコトがこの地に移り(宮之宇都)、神武天皇を生んだとされ、その胎盤を捨てたとされる「血捨之木」や東征の際に渡った「狭野渡し」「馬登」「鳥居原」など神話にある名が多く残る。

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東から西へ続く参道の端にある神門をくぐって、右方向に社殿がある。
つまり、社殿は南向きだ。参拝者はL字に歩いて参拝する。
境内は広く、60mを越える狭野杉が立派であった。

非常に趣のある、立派な神社であった。

2008-04-06

桜と菜の花~西都原古墳群

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あいにく曇り空だったが、朝から「西都原古墳群」を散策。菜の花と桜の風景は、さすがに最高。古墳群は、思っていたより高台に存在した。市街から少し坂を上ってゆくと広大な台地が広がる。004 005    

一番手前の古墳は、「鬼の窟」(206号古墳)。直径36.4m、高さ7m の円墳で、墳丘の周囲に外堤と二重の堀有し、西都原古墳群 では横穴式石室を有する唯一の古墳で、最後の首長の墓とされている。6世紀末~7世紀初めに造られたもので、この形式は朝鮮半島や中国を源流とする新形式の古墳らしい。次に観たのは、巨大な「女狭穂塚」「男狭穂塚」<宮内庁の管轄下にあるため、樹木に覆われた周囲は柵で囲まれ、普段は中へ入る事は出来ない>の側に西都原古墳群311古墳の中で唯一の「方墳」である、171古墳。「女狭穂塚」の横にある。

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誰も観に来ていなくて、ひっそりと目立たないように「方墳」はあった。墳丘規模は、東西20m 南北21.8m。「方墳」は島根県安来市の大成古墳、造山古墳が全国最大の規模を誇り、その他方墳も出雲に集中しており、前方後方墳の魁もみられる。出雲系であるこの方墳が何故ゆえ、天孫族のお膝元西都原にあるのか?オオクニヌシが日向で暮らし、タキリヒメと結婚し、この地で亡くなり、方形の陵墓を作ったという説がある。おもしろい。ただそれにしては、少し小さい気がする。

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011 その後、西都原考古学博物館を見学。地下に展示物、2階には図書館。3階は展望台になっている。りっぱな建物だ。展望台からは、いくつもの円墳が見える。その後、4号地下式横穴墓や、船塚(265号)、100号古墳などを見て回る。最後の「鬼の窟」までもどり、南にある「姫塚」(202号)を見学。短い時間だったが、少し不思議な空間に触れることができた。

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古墳群を離れ、西都市街にある「都萬神社」へ。都農、霧島、高千穂と並ぶ、日向式内四座の一社でした。都萬は「妻」に通じ、ニニギノミコトの妃である「木花開耶姫命」を祀る。「桜」は、コノハナサクヤヒメが語源とされる。古墳群の桜の美しさが頷ける。この神社は、日向国二之宮である。意外に小さな神社であった。                  

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拝殿には宝徳3年(1451年)に献上されたという日本一を誇る巨大な太刀(3.5メートル)が安置されている。そして拝殿の横に、日本酒発祥の地の碑が?コノハナサクヤ姫が3人の皇子を育てるのにお乳の代わりに甘酒を与えたという伝承があるそうです。

宮崎ならではの、古代を偲ぶ休日でした。